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訃報:梶山浩先生

2007年に富士見で刊行された拙作「あくまデふぁんたジー!?」の表紙と挿絵を連載時から担当して下さった梶山浩先生が亡くなられたとのことです。


近年は漫画家としてもご活躍なされ、「Dual Soul One Body」を上梓、去年も「カースブラッド 」が刊行されてこれからという時に、大変残念です。

梶山先生はポップな絵柄からフランク・フラゼッタのような重厚な絵柄まで使いこなしておられましたが、まだ直接知り合う以前、私はフラゼッタ風の時の先生の絵で、R・E・ハワードの本格的な剣と魔法のオールドスタイルなファンタジーモノ、あるいはダークな雰囲気のスチームパンクファンタジーを書いてみたいと願っていました……が、ついに叶わぬままとなりました。
ご一緒に仕事をした方の訃報は初めてで、これ以上、何を書けばいいのか判らないのですが、とにかく、今は黙祷を。

アニメ化から8年経ちました

去った7月10日は、今から8年前最も早い地域で「あそびにいくヨ!」が放送開始された日になります。
で、本日14日は二番目の地域での放送開始日。

ちなみに沖縄では3週間以上遅れた、8月10日がQAB (琉球朝日放送)さんでの放送開始日と言うことになります。

後半15分に、裏番組になぜか「けいおん!」の第2期が入ってしまい、当時沖縄の放送時間に合わせて実況Twitterをしていると、次々「そろそろ『けいおん!』に移るわ」的な書き込みが連続していくのを見て、なんとも寂しいやら悲しいやらの思いをしたことをほろ苦く思い出します。

それから早いもんでもう8年です。あと2年すれば10年です(当たり前ですね)
特典満載の国内版はともかく、北米版Blu-rayディスクが今や3000円前後でAmazonから買えるようになってしまいました。

本家本元の原作も終了して、早3年になります。これまでも色々と「あそいく」とエリスについて語ってきましたが、ほんとにこのキャラクターは作者の私にとっても最後まで謎の人でした。

ただひたすらにほんわかしていて、明るくて優しくて、能天気で前向き。

それまでどちらかと言うと、荒っぽい戦士系であったり、気高い女騎士(くっころナシ)、あるいはじっと影で主人公を見つめているタイプのヒロインばかり書いていた私としては、非常に珍しいキャラクターでした。

一応この前に、広江礼威先生の商業デビュー二作目「SHOCK UP!」のヘルメスという「指示が与えられている戦場では冷酷非情な戦闘マシンだけど実は指示がないとぐにゃぐにゃの駄目な人」なキャラを見て「これまで苦手だった年下の女性キャラは、こういう明るい属性を着けて描けるかもしれない」と気付いて、「南国戦隊シュレイオー」と言う作品で後輩キャラとしての実験をしていましたが、そーゆーキャラクターを主役ヒロインとして投入したのはなぜだったのか。

現在NOTEに公開されている「あそびにいくヨ!」の初期資料によれば(何しろかれこれ15年以上前の話なので、たとえ作者でもこーゆー資料がないと思い出せないのです)、エリスはあそこまで明るくはなく、いつも眠そうで、とにかくのんびり屋だけどもっとぐーたらしていて、何を考えているかニヤニヤ笑ってわからないキャラクターでした。
つまりもうちょっと陰性というか、影のあるキャラクターだったといえるでしょう。
猫と言えばこっちのほうが猫らしかったかも知れません(ただし成長した大人の猫)。

まあ自分でも今となっては思い出せない理由により、エリスは成長してご主人様の上にドテッと座るふてぶてしい猫ではなく、ハイテンションな子猫に近いキャラクターとなりました。

結果、第1巻を書いてる時はものすごく苦労しました初めてやることには不安がつきものですが今回は特別大きかったと思います。夜中に榊一郎先生の所へ電話を入れて相談を持ちかけたと言うのはホントの話です。
その時榊先生が
「いつも通りのヒロインにしたほうがいいんじゃないんですか?」
とおっしゃっていたら、「あそびにいくヨ!」は、3、4冊で終わっているちっちゃなシリーズになっていたかもしれません。
本当に世の中というのは不思議なものです。

かくして、エリスと言う不思議なキャラクターはヒロインとして降臨し、彼女を中心に物語は構築され、さらに土の中から、彼女のまいた種により、アシストロイドと言うちんまい福の神も呼び出され、20冊にも及ぶ大長編になったわけですが‥‥

この作品のおかげで本当に助かりました。作家としての能力の幅を広げたという意味も個人の経済効果にしても、この作品なしに今の自分は存在し得ないと思っています。
それだけにこの作品をどう越えていくのか、あるいはその面白さにどこまで近づきどこまで遠のいていくのか、当分の間これは私の宿題として目の前にずっと体されていくことになると思います。

では皆様これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

操觚の会という所に実は入っておりまして(何故か)


今月7月19日(木)午後7時半より、何故かお世話になってる歴史小説作家の会「操觚の会(そうこのかい)」のウェブ実況をかねた公開収録、ライブワイヤーが行われます。
お題は「アイディア発想法」
登壇者には「龍が哭く」の秋山香乃先生、「世直し将軍家治」の誉田龍一先生他豪華な時代小説、歴史小説家の方々。



あの精緻な作品群はどうやって生み出されるのか。
歴史&時代小説という「まず史料を読み込み、史実を知った上で」小説を作るこのジャンルにおけるノウハウの公開もあると思います!。
遠隔地ゆえ、出演はできませんが、ちょっとだけ私もお手伝いしました!
前売りもあれば当日券もあるそうです。前売り券はこちら→

「死霊のはらわたリターンズ」S1~2感想

今回は13日の金曜日に相応しい話題です(笑)
Huluで「死霊のはらわたリターンズ」シーズン2までを見ました。

今から数十年前、まだ無名時代のサム・ライミ監督と仲間たちが作った「死霊のはらわた」は低予算ながら異様なテンポの良さと演出で、当時嵐のように巻きおこっていたスプラッタホラーブームのトップランカーに踊り出て、以後サム・ライミは大監督への道をひた走ることになります。


ゾンビものという体裁で当時日本では喧伝されてましたが、もっとスピーディで狡猾で、劇中呼ばれる「悪霊」という言葉がピッタリするような傑作でした。
当然続編が作られ、主役のブルース・キャンベルは青年期の殆どをこの映画に捧げたと言っても良いでしょう。

なお「死霊のはらわたⅡ」は「死霊のはらわた」の続編ではなく、一種のリメイクで、アッシュが事件をはじめたことになっています。
特に第三作である「キャプテン・スーパーマーケット」の劇場公開版のラストは痺れるぐらい格好良かったです(残念ながらサム・ライミご本人はこの、映画会社の要請で撮らされたラストがえらく嫌いで、現在販売されているソフトは全て本来の『時そば』オチが使われてますが……)

で、それをテレビシリーズにするってことはどっちのオチを使うの? と思ってたらやっぱり劇場公開版のその後らしく。
最初の「死霊のはらわた」では結構純情で、恋人の言いなりに車を出したりと、あまりキャラもたってなかったアッシュですが、1作目のリメイクでもある2作目では事件をはじめるテープレコーダーのスイッチを「面白そうだ」と入れ、悪霊に取り憑かれた手首と格闘した挙げ句切り落とした辺りから「適当で直感で物事を決めてしまう&相手に負けるぐらいならどんな手段でも使う」というキャラが付属し、「キャプテンスーパーマーケット」では最終的に「適当でいい加減で自己中のナルシスト」というキャラが完成しました。

で、当然テレビシリーズもそういう設定です。何しろ物事を最初に悪化させたのは女の子をナンパしてマリファナ吸っていい気になった当人という……!
で、大抵のオカルト、ホラー系の映画をテレビにすると血糊の量はぐっと減るんですが……これは「いや、スプラッター映画の金字塔のテレビ化ですよ? 何言ってるんですか?」とでもスタッフが画面の向こうから語りかけてくるかのように、毎回最低でもドラム缶3本分は血糊がぶちまけられるような作品となっておりますので、苦手な方はご用心。
意外な役者さんが意外な役周りで出てきて無残に殺されたり、殺された後はしっかり死霊に操られて襲ってくるとか、しかも負けそうになると本人であるかのように装って逆襲しようとしたり、本来の映画版に残っていた要素はかっちり押さえております。
凄いなあと思うのはアッシュのその「デタラメでいい加減で自己中でナルシスト、基本考えるのは苦手で女好きで、めんどくさい事は撃ってから考える、しかもちゃんと何とかしてしまう強運の持ち主」というキャラクターのお陰で物語が始まり、回転し、納まるところに納まっていくという。
特にシーズン1の最終回なんて、アッシュ以外のキャラクターでは有り得ないラストです。
でシーズン2になると「それは無関係な一般市民から見ればサイコ野郎ってことだよね」という片鱗を見せ、アッシュにとって死霊=動く死体を切り刻むことが一種の日常で、死ねば死体もタダの物、もしくは悪霊の取り憑く器でしかない、ということをギャグとして見せていくわけで。
一応ドラマなので仲間も出来ますが、気弱で善良なパブロは叔父さんを殺されても一般市民的善良さをまだ「少しは」持ち合わせるものの、それ以外の仲間となる女性達は逞しく状況に対応し、最初こそ躊躇するものの、死にかけて何とか生き延びると、二度目からは遠慮無しに銃をぶっ放せる人間になっていくというあたりの「周囲の頻繁な人死にや、人が人の形をしたものを壊すことになれてしまう」という怖さもちらっと描いていて(見ている間は殆ど気付きませんが)、というのも見事だなあと思います。
シーズン2は評判になったのか意外な役者さんが出てきて、いい役を貰ったと思ったら無残に殺されたりとか、「死んだら死霊、いい人は頭が潰されて死霊にならない」を徹底しているのは偉いというか無茶というか……
吹替もテレビドラマ「バーン・ノーティス」以来ブルース・キャンベルのフィックス声優になった江原正士さんの声で喋るので、とんでもない格好ツケのロクデナシなのにどこか憎めないアッシュの魅力が爆発しております。

残念ながらアメリカではシーズン4でシリーズ終了が決定しちゃったそうですが、さてどんなオチをつけるのか(あるいは着けないのか)楽しみにしていたいと覆います。

個人的にはシーズン2に登場し、江原さんが「NHK教育のキャラクターのように」演じたこの「切り裂きアッシュ君」のマペットが実際ネカから販売されてるのでちょっと欲しくって……

追悼・加藤剛

数日前、俳優の加藤剛さんが6月18日に亡くなっていたことが発表されました。
私たちの世代(1970年代)生まれの人間にとって加藤剛といえばやっぱり「大岡越前」でしょう。
「清廉潔白」という言葉に着物を着せて丁髷を乗っけて刀を差したような、どこから見ても歴史に名高い「名奉行」かつ「正義の人」でした。
日本版グレゴリー・ペックのようなところが役柄にもご本人にもあったというのは色々な所で報じられている所でしょう。
現代劇でも時代劇でもその辺は変わらず、逆に数少ない犯罪者役だったりする場合はそのイメージでもって「何かがある」と見る側に思わせる力がありました。
それを上手く使ったのが映画「砂の器」でしょう。
ただ、個人的には「大岡越前」以外で加藤剛という俳優の役で印象に残っているのは「剣客商売」の秋山大次郞とTBS開局記念番組の「関ヶ原」での石田三成でした。
「剣客商売」は後に何度か映像化されて、藤田まこと版をよく覚えていらっしゃる方が今は多いと思います(まさか北大路欣也が最新版で演じるとは思いも寄りませんでしたが)。
中学校の頃初めて「剣客商売」を何の予備知識もなく読んだ時「大次郞は映像化したら若い頃の加藤剛みたいなんだろうな」とボンヤリ思っていたら実際その通りだったんで驚いた覚えがあります。
さて、主役である秋山小兵衛はともかく、大次郞というキャラクターは最初の加藤剛以後、何度も変更となりました。
これはもう最初に演じた加藤剛が、原作から抜け出てきたように「明朗快活な朴念仁」キャラをイヤミも無理もなく、見事に演じきっていた……というより原作の池波正太郎が、中村又五郎の小兵衛と同時に、大次郞を加藤剛を念頭に置いて執筆していたのかも知れないと思うのですが。

実際、「剣客商売」の最初のテレビ化は大次郞が旅に出て終わってしまいますが、実は加藤剛が「大岡越前」を演じるためにやむなく中断したものの、「大岡越前」が終わればすぐに再開する予定があったんだそうで。
結局「大岡越前」は大ヒット、ロングランとなり、やむなく番組の続編は泡と消えました。なお放送当時は小兵衛にしては大きすぎる、と評判が悪かった山縣勲の小兵衛はなかなかに「凄絶な過去を持つ剣豪でありながら、今はユーモアと冷徹さと人情味のご隠居さん」という小兵衛の難しい所を飄々と演じてて、これまたハマり役であったと思います。
その後、80年代に入り、小兵衛のモデルであると原作者が公表していた中村又五郎がそのまんま小兵衛を演じた時代劇スペシャル版(フジTVが時代劇復活を掲げて作った二時間枠の時代劇番組)における「剣客商売」2作においても加藤剛が大次郞を演じておりまして「原作者の理想」ってこういうのなんだろうなと思いましたが、残念ながら70年代版と並びこの作品もソフト化されておりません。

そしてもう一本が「関ヶ原」。

東映松竹系時代劇俳優以外の、時代劇の出来る俳優をありったけかき集めて全3回に分けて作られたTBS史上、最初で最後の大予算の時代劇テレフィーチャーにおいて、加藤剛は西軍の将、石田三成を演じておりました。

司馬遼太郎の原作はそれまで、迂闊で小賢しい官僚、あるいは淀姫の愛人として描かれてきた「汚れ役」石田三成を、徹底した「道理と義の人」として描き、そこに加藤剛という役者がはめ込まれることで、作品はほぼ作る前から完成していたといえるかもしれません。

正に「古狸」の森繁久彌の家康、真っ黒な演技が出来る時代の三國連太郎の本多正信(史料にあるとおり『他人から聞けば禅問答』と呼ばれた会話まで再現!)を筆頭とする東軍側に対して、西軍は島左近に三船敏郎、盟友の片方、直江兼続に細川俊之、そして命まで賭けたもうひとりの盟友、大谷刑部に高橋幸治……筆頭に並ぶ人たちだけでまあ物凄い。
特に業病の末期で、失明していても状況を冷静に判断し「お主、儂より目が見えぬか、この戦勝てるわけがない」と一度は参戦を断った大谷刑部が、琵琶湖のほとりでかつての茶会での出来事を思い出して引き返し、
「儂もお主ももう目が見えぬ、この命くれてやるわ!」
と言い切って手を握り、参戦を表明する場面は、正に相手が加藤剛の三成だからこそ説得力のある「絵」でした。(同じ回には東軍には家康と幼い頃からの側近、鳥居彦右衛門との別れの場面があってこれもまた老いた主君と家臣という枠を越えたいい場面で、しかもこの回のタイトルは「さらば友よ」というのがまた! 原作の司馬遼太郎と、脚本の早坂暁の凄さでしょうか)
そして華々しい合戦のあとの堂々とした三成の処刑と、その後に続く陰惨な戦後処理の果て、後の己と、己の家の運命を薄々感じ取ったかのように疲れ果てた本多正信が三成の墓を詣で、裏切った小早川秀秋が狂死するほど自己嫌悪するのも当然というか…

晩年は正義の人ながら腹に一物ある高級官僚を演じたり、現代劇におけるもうひとりの「正義の人」宇津井健と並んで、まだまだご活躍なさっていただきたかったですね。

(※文中一部敬称略)

カミカゼの邦17日までKindle版半額だそうです

タイトル通り、Kindle版の「カミカゼの邦」が17日まで半額セールだそうです。
紙の本よりも元々400円ほど安い電書版が更にというのはお買い得だと思います。

作者としては前もって教えて欲しいところではあるんですが、どうも電子書籍に関してはどういう手順と規定になっているのか、作者も小まめにチェックして始まってから知らされるという状況でして……。

 

 

 

カミカゼの邦はこれからもまたちょっとあると思います。

「無限の猿定理」あるいは「猿にタイプライターを与えるといつかシェイクスピアを書く」理論

「無限の猿定理」というものが世の中にはありまして。
「巨大だが有限な数を想像することで無限に関する理論を扱うことの危険性、および無限を想像することによって巨大な数を扱うことの危険性について示唆を与える」ものであります。つまり巨大な数字と無限というものは別種であるから混同して考えてはいけない、というところでしょうか。
よく「猿にタイプライターを与えて叩かせ続ければいつか猿はシェイクスピアの一節ぐらい書くだろう」という風に表現されるそうです。
実際には「可能性というのははっきりした数字で表すべきで、無限の分母を持たせるとどんな極論でもあり得ることになるから無意味であり、数学的にはもっとダメ」ということでしょうか。
Wikipediaの文章に寄れば面白いのは「誰が最初にこの話を猿とタイプライターとシェイクスピアに例えたか」という話が真面目に論考されてきたという歴史があることで、この辺がカッチリ物事を定めたい数学関係の人たちの気質に繋がってる部分でしょうか。
さて、これほど論理的ではなく、もっと大雑把に「猿でもタイプライターを与えればシェイクスピアをいつか書く」というような謎理論にして物事を考える人たちというのはいます。
もっと簡略化すれば「こんなもの訓練(練習)すれば誰でも出来る」という言い方です。
人によっては「なぜなら自分には出来るから」というのが加わります。
が、それはまだマシなほうで「判らないから教えて」と言える。
問題なのは「誰にでも出来るんでしょ? 自分でも出来るけどその時間がないから君好きで身につけた能力なんだから適当にチャチャッとやってよ」というパターン。
もう一つは「私にも出来そうだから金になる仕事を即座に教えて」というパターン。
以前見かけた海外の1コマ漫画でイベント会場でヒーローの絵を描いてもらった少年が初老の漫画家(あるいはイラストレーター、アメコミだからペンシラーかもしれません)に「すごいや!15分で描いちゃった!」と驚くのへ、その描き手である初老の人物は「でもね坊や、15分で描けるようになるのに30年かかったんだよ」と思っている、というものがあります。

簡単にできそうだから簡単にできるとは限りません。

補助輪無しの自転車だって何時間も練習しなければ乗れません。
何より人に何か労働をさせるなら、対価が必要です。
これまでの作家人生で品物を納品してから印税を値切ってきた出版社はさすがにありませんが、シナリオを仕上げた途端「前回お支払いした報酬で」と言い出したところはあります。他にも色々。
もちろん言いなりに払うことが出来れば一番いいのですが、まず何かを頼むなら「幾ら必要だろう」と聞く。折り合わなかったら諦める、もしくは自分が支払える金額ギリギリにまで仕事のグレードを落としてもらう、というのがまっとうな筋というものだと思います。
好きでやってることは労働ではない、というのは間違いです。
好きでやって得ている能力なら、好きじゃない条件なのであなたの為に使わないという選択も正しいわけで。
労働と苦労、苦労と努力、努力と貧乏をどうも現在の日本ではごっちゃにして、本来違う意味での「清貧」という言葉に押し込めようとしてる気がしますねー。
子供の頃はともかく、大人になればある程度金銭的余裕がなければ創造する力なんて働かないんですよ。
絵や文章だけじゃなく、他人に何かを頼むときはどんなときでもなるべく報酬を用意しましょう、というお話。
そして、同時にそれが払えないぐらい貧しい人たちに無償で何かをしてあげるのも大事なことなのでありまして……あれ? なんでこんな話になってるんだ?

ひとつ言えるのは「あんなの誰でも出来るけどあなたは好きだからやってるんでしょ」と「私もやれそうだからやってみようかしら、お金になる所教えて」というのはどちらも大変、それを仕事にしている人、あるいは真面目な趣味にしている人をバカにしていることになるので、止めましょう、ってことです。ハイ。

永六輔という人(後編)

永六輔氏と言えば晩年、パーキンソン病を患い、あの独特な口舌も残念ながら衰えてしまいましたが、頭の切れは変わらず、あの伊集院光氏をもって「永さんはラジオの神様だからあれでいい」と言わしめていたわけですが、それが嘘のように消えた十数分間を私は覚えています。
NHKが創立60周年を記念して作った「テレビのチカラ」という番組です。
そこで永六輔氏と対談したのはあのおニャン子クラブやAKB48のプロデューサー、秋本康氏。
この時の永六輔氏は言葉もはっきりしており、テレビの歴史と自分の歴史を重ね合わせながら、今のテレビのありようとこれからについての意見を述べているわけですが、私にはその言葉の選び方、話題の出し方が、秋本康という今のテレビ業界、とくに芸能における最大にして最も若い(!)大物に対する遠回しな「遺言」いえ、「太い釘」を刺しているように見えてなりませんでした。
同時に言葉を紡ぎながらこの相手には無駄だろうと自覚しているようにも。
Twitterで本職のお医者様からのご指摘もありましたが、パーキンソン病の症状のひとつに表情筋が動かなくなることから皺がなくなるほど顔がつるんと無表情にになる、というものがあります。つまり我々が普段無意識にしてしまう、人を睨んだり微笑んだりする動作が難しくなる、ということです。
だからそう感じたのは私の先入観、妄想かも知れません。
ただ、永六輔という人は常に大人の、そして晩年は老人としての責任を全うしつづけた人でした。
大人であるころは間違っていると思う事には声を上げ、非難されながらも走りまわり、老人となってはこれに加え、「昔からあるよいものは守らねばならない」「物事は変わるからといって流されるがままにしてはいけない」ということを何かにつけて警告し、時には叱るということが必要だという考えに沿って行動していました。
これもまたそういう一幕……それも映像における永六輔というキャラクターの、最後の一幕だったのではないか。
そう思えてならないのです。

そしてそれを受けた人物が、あらゆる意味で自分がプロデュースしているアイドルグループに関わる事件が起こり、責任を取るべき時、問われるときにそこから逃げ続けている人である、という事実に、世の中というモノの皮肉を感じずにはいられません。