(※これまでのあらすじ)

 二次元=サンから送られてきた古書の中に、どういうわけか沖縄の幻のテレビ局、DNRTV(大日本琉球テレビ)の「実写巨大ロボットもの」の企画書を見つけた私は、企画者である安謝牧志氏のご子息、Aさんに連絡を取って、お話を伺った。
 Aさんは親切にも、安謝牧志氏の遺品の中から、一枚の名刺を見つけてくれた。
 そこには「大日本琉球テレビ・企画営業部部長」という肩書きと、真ん中の数字……市内局番が三桁になった電話番号が記されていた。
 つまり市内局番が三桁になるように変更された、1990年以降にこの名刺は作られたことになる。
 住所は国際通りの外れ、既に存在しないビルだった。
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「60年代、70年代のDNRTV設立に関わった残党が90年代、日テレ系とスカパーの一部番組をまとめて、沖縄にQABと並んでDNRTVを今度こそ、と企画を持ち込み資金を募集したようですが、結局、出資者側の内部分裂で物別れになったようですね」


 無駄かも知れないが、現場に行ってはみるもので、ビルの持ち主で、そのそばの自宅の1階で本屋を経営していた老人は、そう教えてくれた。

「本日で営業を終了します」という三日前の日付の張り紙をシャッターから剥がしているところを見つけて、声を掛けると、老人はその記憶力の良さで答えた。
「濱川さんはよく、うちの本屋に本を買いに来てましたよ。あの頃確か、どこだったか鉄人の雑誌版の復刻本が出て、「友達にも配る」ってんで全巻大量に注文してくれてねえ……心底好きだったみたいだね、あの年齢の人にしちゃ珍しいよ。ガンタム? とかも好きだったし……とにかく、生きてる沖縄のテレビでロボットものを作ってみせるんだ、ってのが口癖でね、今どうしてるかねえ……2003年ぐらいかな。○○病院でたまたま見かけた時は元気だったけどねえ」

沖縄は狭い。那覇となれば更に。

その病院なら、五年前まで私のかかりつけだった病院である。

私よりも前からそこに通い続けている人に、本屋の老人から聞いた濱川氏の特徴と名前を伝えると、2010年前後に亡くなったという。

「なんかねー、お爺ちゃんなのにもの凄くアニメやロボットが好きでねえ、ほら、何年か前に外国の巨大ロボットものがあったでしょ、アレを観て「やられたー、悔しい」っていいながらニコニコしてた。孫と凄く気があって……でもあっけなかったわねえ」

宮古方言のできる友人に翻訳して貰ったが、そういうことらしかった。

 これ以上は調べることはできそうにないのと、生活もあるのでとりあえず私はここで調査を打ち切った。

この、二つの企画書を書いて、東京まで飛び回っていった人物が何を考え、どういう経緯で企画書が二次元=サンのお父上の手元にきたのか。それは判らない。

 濱川氏の年齢は、安謝牧志氏より10歳は上だったという。存命なら90歳を超えている。
つまり、終戦時20歳以上。
30歳の彼が何故「鉄人」にハマって、自分でも巨大ロボットものを作ろうとしたのか、その夢をどうやって抱き続けていたのか、どう実現するつもりだったのか。

全ては今のところ闇の中である……

と思っていた所、意外な所から証言者が現れてくださった。

校長先生

「息子の高校の校長先生が、昔、DNRTVの社員になりそこねたことがある」

という話が、久々に会った友人から聞いた。

「担任の先生がコロナで休みになった時に代理授業で来て、高3の生徒達に卒業後の進路の話をしているときに『自分は沖縄で設立されるはずだった放送局の社員に、半年だけなった事がある』という話をしていた。QABかと息子が聞いたら違う、と。でっち上げじゃないか自分に聞いてきたんで、昔、お前に聞いたDNRTVの話をしたらそれだ、と納得した」

という。

「引き」が来たときは「引っ張る」のがこういう調べ事の基本である。

 早速、高校に電話を入れたところ、その校長先生は去年、早期退職なされたという。

 あとは親戚の教育関係者のツテを辿った……幸い、知人がその校長先生の下で教頭として勤めた時期があって、未だに年賀状交換していたため、連絡が取れた。

 校長先生(以下Bさん)は、数年前に交通事故に巻き込まれ、九死に一生を得て以来、死生観を問い直して「もう校長になって20年、そろそろ後進に席を譲るべき」と決めて早期退職なされた。
 今は退職金を元手に始めたデイトレードで成功し、悠々自適の生活をなされている。
 週三回のジムの日に、お会い出来ることとなった。

「ああ『カラテダー』だ! 懐かしいなあ!」


挨拶の後、企画書に通を見せると、Bさんは温厚そうな顔に満面の笑みを浮かべながら70年代の「琉球ロボ・カラテダー」の企画書を手に取った。
 肌つやはよく、髪の毛も艶々としていて、とても70代には見えない。
「1972年かな。僕は大学を卒業したてで、なんか華やかな仕事がしたいと思って最初、琉球放送の試験をうけたら落ちちゃって。凹んでいたらDNRTVって新しい放送局が人を募集してる、というんで応募したら、濱川さんが試験管でね、一発で通っちゃった」
 ページをめくるたびに、目が輝いていくように思える。
 Bさんは今年73歳、鉄人28号直撃世代でもある。
 同じく鉄人好きの濱川氏とは一発でウマが合ったようだ。
「……あの頃はマジンガーとかそういう派手なロボットが多かったんで、子供達に喜んで貰おうと思って、さらに流行ってたブルース・リーとかそういうのを入れてみたんですよ」
 そういう新要素を入れる事に、濱川氏は反対しなかったという。むしろ「俺には今の子供達の欲しいものはちょっとわからないからなあ」と積極的にBさんの意見を受け入れ、主人公の設定やストーリーも変わっていったという。
 また、企画書中のロボットのデザインは、当時、東京でアニメーターをしていたBさんの幼なじみ二人の競作だという(※残念ながら二人とも故人)。
「僕としては30分ものでいいじゃない、と思ったんだけど、濱川さんがどうしても『沖縄の歴史や風景を紹介紹介する番組を絶対5分は入れるから正味15分だ』って聞かなくてね」
 でも、実際には30分番組って、ドラマの場合、中身は15分しかないんだよね、とBさんは笑った。
 つまり、この70年版も濱川幹雄氏の側から持ち上がった企画だったらしい。
 安謝牧志氏のことを聞くと、「濱川さんが連れてきてちょっとだけ在籍したけどすぐ辞めちゃったんだよね」と記憶していた。これはAさんの証言と合致する。
「一生懸命セールスして、海洋博目当てで流れてきた本土のゼネコンの人を経由して、東京の玩具会社が興味を示してもう少しで……だったんだけどねえ。DNRTVの準備組織自体が消えちゃって」

「日にちの所、70の所を消して74にしてるでしょ? これ僕が発注間違えてね。当時はすぐ版下作り直すなんて贅沢できなかったから、刷った書類全部に僕が打ち消し線と書き込みをしたんですよ」
懐かしそうにBさんは企画書をめくる。

「たしか、200冊ぐらいだったかなあ。あれ以後、必ず書類は4回チェックするようにしています」

琉球ロボ・カラテダー

では、その内容を紹介しよう。こちらは活字なのでそのまま写真を掲載する。


「琉球ロボ・カラテダー(仮)」のほうは企画意図がよりはっきりし、カンフー映画ブームも取り入れる意欲的なもの。
 大きく「ボツ」と書かれているのはテレビとしての企画なのか、それとも80年代におけるスポンサー採決の意味か不明。

企画書の内容も洗練され、企画意図が最初に、設定説明や資金回収や収益の問題についてもより深く触れている。
このページにある「マシンガー」の放送開始は73年の末であるから、表紙に70年とあるのを消して「4」を書き足しているのはBさんの証言どおり「発注ミス」なのは間違いない。
 以下の文章は「産業を持たない沖縄において、映像産業が一つの鍵である」と信じていることがうかがえる。

 また沖縄の本土復帰は73年であることから、この企画書は当初、70~72年頃に作られ、2年後に緊急に書き直された(あるいは和文タイプライターで打たれたものを切り貼りして印刷に出し、写植に置き換えられた)可能性が高い。
 地産地消なグッズ展開、コミカライズの話はここでも「大鋼人」と同じく書かれている。
 よほど自信のあるアイディアであったことがうかがえる。

 ストーリーとキャッチコピー紹介。主人公の年齢が上がり、大学生になっている(死体洗いのバイトというのはいくら何でも……だが)。
 また、「無敵大鋼人」の時の主人公のボツになった名前「ゴウケン」が復活している。
 敵が宇宙人から地底人になっているのは「マジンガー」以後、「ゲッターロボ」などからのインスパイアだろうか。
 ロボットが純粋なアメリカ製であることと、米軍が当初、誤って登録された主人公を殺そうとするなど、60年代の時とは違い、「本土復帰」が設定を微妙に後押ししているのが判る。
 それと、ロボットの基地が「首里にある琉球大学」の地下にあるというのは、当時、琉球大学が首里城城址の上に建っていたことを知らないとギョッとするかも知れない。
(※1980年代に琉球大学は西原町に移築され、首里城再建がスタート)

 また、主人公ゴウケンはバイクに乗る、という設定は明らかに「仮面ライダー」からの影響であることがうかがえる。「イマドキのナウな若者」という説明がさすがに古い。

登場人物のところには珍しく参考写真が貼ってあるが「これは無理」の書き込み。
キャスティングにおけるダメ出しでもされたのだろうか。それとも「内間明美」がその頃にはすでに「南沙織」と名前を変えて本土でデビューして「高値の花である」という意味か、あるいは彼女のような女優(アイドル)は二度と出てこないという意味か。

 それにしても、80年代、どうしてこの企画書は東京へ行ったのか。
 これに関して、Bさんが答えを持っていた。

「80年代に入って、レトロブームってのが始まったでしょ? 昔のヒーローたちがもう一度脚光を浴びた。その時にこっち(琉球無敵科学大鋼人)とセットで売れないか、って濱川さん思ったみたいでね。スポンサーを獲得してから沖縄の放送局を説得しようと思ったみたい。東京へ行く前日、『アイディアを出したのは君だから、ひと言ことわりを入れようと思って』って電話が来たよ……興味があるなら利益を分配するけど、ということを匂わせてたけど、もう僕は教員だったし、昔のことだから『どうぞどうぞお好きに』だったけどね(笑)」

 確かに80年代初頭から半ば過ぎにかけ、1950年代~60年代を中心にしたレトロブームが起こった。
 ヘラルド映画が「月光仮面」をCB750に乗せた新作映画を作ったのもこのあたりである。
 ガレージキットメーカーの雄、ビリケンはその超絶造形力で「七色仮面」や「ナショナルキッド」のソフビキットを売り出していた。

 レトロヒーローのデザインを売りつつ、まだ80年代には通じた70年代の「スーパーロボット」も売り込む、というあたりに濱川幹雄氏の執念がうかがえる。

「多分、書き込んである字は濱川さんのじゃないかなあ。多分、会議は相当紛糾したんでしょうね。あの人、不貞腐れると筆跡が読みにくくなっていくんですよ」

 ロボットのデザインは大分リアル等身に寄っている(※ここでもデザインに対して上層部の意見が割れているのはご愛敬というところか)。
 アニメーターならではのデザインであり、人が入ることは考慮されていないものの、65年の「琉球無敵大鋼人」と違い、かなり洗練されている。
 説明文が一部「琉球科学大鉄鋼人」のママなのは企画書の本文が大分流用されていると判る。
 それにしてもテレビ版の「ジャイアントロボ」で東映が四苦八苦したのは68年、宣行社が「スーパーロボットレッドバロン」を放送開始したのは、この企画書が提出された一ヶ月前の74年3月。
 70年代はともかく、再提出された80年代には、この辺の技術はかなりの進歩を遂げていたはずである。
 ただし、地方の造形技術でこの通りに作れたかどうかは大分怪しい。東京に持ち込まれたのは着ぐるみ制作のほうも東京で行う必要があったからではないか……

スタッフの確保について。これも放送局設立前提のためかほぼ「琉球無敵科学大鋼人」と同じものになっている。金額も、多少増加はしているがドル時代のままだ。

74年と言えばその前年の73年には「ライダー」の登場によって日本中が「変身ブーム」に湧いて、等身大ヒーロー、同時にテレビシリーズ復活で第二次怪獣ブームもまっただ中、雨後竹の如く制作プロダクションが作られ、潰れて、業界を彷徨う人たちも少なくなかった。

そういう人々を安く雇って使った方が人材育成より安上がりで言い、とでも言われたのか「アホか!」の書き込みがあり、最後の所には「未来だ、未来!」と書いてある。

Bさんの仰るとおり「カラテダー」はかなり力を入れていたのか、会議が白熱したものらしい。
それとも、白熱したのは濱川氏だったのか。

どうやらこの時代「新しい地域のお土産として怪獣やヒーロー、ロボットをソフビ人形として作る」という考えは理解されなかったのか、「理解されない」の書き込み。

コミカライズ作品も含め、「独自の土産物」として考えるのはこの当時としてはかなり先鋭的で、それ故に理解されなかったらしいことが「ヨマナイ……バカか?」の文字から判る。

また、これによると別資料があったらしいが、私の入手した封筒には入って無かった。

「クサすぎ」の文字は会議が紛糾したからか、それとも暇になって気恥ずかしくなったからか。

安謝牧志とはどんな人物だったか?

ところで、この企画に二十年以上も熱意をもち続け、死ぬまでロボットに憧れを抱いていたらしい 濱川幹雄氏とはどういう人物だったのか。
 驚く程温厚な人物で、無邪気、そういう印象がある。


 そういえば、とBさんは一枚の写真を取りだした。

「何枚か、濱川さんと写した写真が残ってたんですよ」

 この写真はBさんが入社したばかりの頃のものだという。服装や車に、まだ60年代が色濃く残っているのが沖縄らしい。
 驚くのは濱川氏の外見だ。当時、概算で考えても40代後半だというのに、どう見ても当時のBさん同様、20代~30代にしか見えない。
「よく『俺の家系は老けないんだ』って自慢してましたね。ただ、今考えるともの凄い小食で、毎朝、健康の為に5キロは走ってたし、酒も煙草も吸わなかった。肉も魚も滅多に口にしない。今で言うヴィーガンみたいなものかな? でも酔っ払った振りが上手くてね。酒の場を白けさせることは無かった」
 ただ、宮古の人がいる場所へはなるべく近づかないようにしていたという。
「今はもうTPO弁えて宮古の人も滅多に強要しないけど『オトーリ』があったからね」
 Bさんは懐かしそうに笑う。
「あと、18までは本土に住んでたっていうから、多分お金持ちの家の人だったんでしょうね。招集されて南方の方で輜重兵をやらされてて、自動車を運転してた、って言ってましたよ」

 当時の日本陸軍において、輜重兵は「兵隊のうちではない」と軽視される兵科であった。さらに南方任務となれば、自動車部隊にいたとしてもかなり過酷だったろう。
 だが、濱川氏は自ら進んで「自動車に乗れる」からと輜重兵を志願した変わり種だったらしい。
「沖縄はあの頃本当に、ヤクザもいないぐらい『何もない県』でしたからね、あの人の世代からすると機械というのは未来で、都会を意味してたみたいですよ。よくそんなことを仰ってました」

 Bさんは懐かしげに笑う。
 濱川氏の終戦は不幸中の幸いという形でやってきたらしい。

「補給のために乗ってた船が荷物ごと沈められて、アメリカの船に救助されて、捕虜収容所に送られる途中に、ポツダム宣言が受諾されて、そのまま敗戦だった、って。同じ部隊の人たちは半分ぐらい亡くなられたそうですが、それでも南方にいった部隊としては被害が少ない方だと、よく仰ってましたね」

 彼が「ロボット」に惚れ込むようになったのはその捕虜になったアメリカの船の上だったらしい。

「SFの雑誌や小説があったらしいんですよ。濱川さんは船の上でそれを水兵から何冊か貰った。その中にカレル・チャペックの『R:U:R』があって。濱川さんは当時から英語はある程度読めたらしいんで、そのままハマっていったらしいんです」
 いかにも戦前生まれのインテリらしい話である。
 恐らく、安謝牧志氏とのつながりもその辺ではないだろうか。
「で、捕虜収容所から引き揚げて、沖縄に戻ってきて、そこで『鉄人』にであったそうです。アトムよりも『兵器』の側面があるところにリアリティを感じたそうで」
 この辺はミリオタに通じる部分である。
「で、沖縄の今後を考えると映像産業というものが一番いいんじゃないのか、と思いつく辺りはよく分かりませんけれどもね……でも今から考えると映画の撮影の時のロケ地調整の仕事とか、って意味じゃ無かったのかなと今では思います」

濱川氏、その後 
 そして、濱川氏はDNRTVの設立に奔走し、夢破れ、東京で不動産業に就いた。

「そこへバブルが来たでしょう? 森永卓郎の著書を信じて濱川さん、不動産投資をしてて、お金が儲かったんですよ。そこでもう一度、って思ったんじゃないですかねえ」
 濱川氏の80年代までの足取りと、この書類がなぜ東京に送られたかは判った。
「まあ『企画は千三つ』っていいますから、バブルの勢いを借りても上手くいかなかったんでしょうね」
 翌年の年賀状には「例のあれ、上手くいきませんでした、ご免」と書かれていたという。
「そのうちバブルが弾けて、濱川さんは財産が半分になっちゃった。それでも悠々自適に暮らせる分はなんとか残ったんで、沖縄に帰ってきたんでしょう。残りの時間大分穏やかな顔になってましたよ、肉も魚もよく食べるようになってて驚きました」
 ということは幸せな晩年だったらしい……と思ったが、
「息子さんがね、女と馬……競馬に入れあげてしまったんです。老後の資金管理を全部任せてたんだけど、結局ね。息子さんは開き直って『ちょっと早い遺産相続しただけだ』っていって、親子揃って生活保護ですよ……私もなんとかしようとしたんだけど『それだけはしてくれるな、君は血のつながりがない、そんなことをして貰ったら君に合わせる顔がない』って……頼ってくださってよかったのにねえ」

 2012年、濱川幹雄氏は世を去った。享年99。
 残された遺品の中にギレルモ・デル・トロ監督の「パシフィック・リム」のレンタル落ちDVDがあったという。

 「なんども観返してたみたいですよ。なくなる寸前まで――――よっぽど悔しかったのか、それとも、自分の新しい夢を、その中に見ていたのかも、しれませんねえ」
 Bさんはそう言って、古い企画書を閉じた。


(※作成協力・沖縄タイムスカルチャースクール「神野オキナ小説講座」の皆さん)