NHKの筒井康隆特番をなんとか最後まで。
(※文中一部を除き敬称略)
最初こそ「大手マスコミが強大で、日本中に本屋が数十万軒あって、再版といえば最低数万部レベルのシンプルで幸せな時代を駆け抜けた、才能ある人の回顧録」だったが、最後になると亡くなった息子さんの話もからめ、「いい話」にしてしまおうと見せかけつつ、実際には後継者のいない、かつての偉大な王の寂しい晩年なのだということが際立ってくる。
周囲に王を称賛し、尊敬し、あがめ奉る人たちは出てくるが、この人は最後の最後に、父親としての幸せを奪われたのだろう……実際には奥様がお元気にいらっしゃるし、息子さんは奥さんと孫を残している。
義父として、祖父としての幸せは残っているのに。
そういうものが「無いような」演出が成される画面の中、最後、車椅子で一人の風景で終わるのに卑しい意図を感じる。
今年の冒頭に放送された織本順吉の番組がそうだったように、これは「役者で作家な筒井康隆」としての最後の舞台の記録、その序章ではないか。
もし、そうだとしたら、織本順吉の場合はディレクターである娘が明白な「共犯者」であるために「生涯脇役だった父の唯一の主演作」としての意図があったが、こちらにはそういう「肉親の情」が無い分、酷く卑しい物になってしまう気がする。
ただし、それすらかつて悪趣味、悪ふざけの総本山だった作家にして役者の筒井康隆にとっては相応しい最後の舞台かもしれない。
己の作品を徹底して校正、改稿することで、人生の最後の最後に恐ろしい、「作品の普遍性を強化しまくることでの、後世作家によるリブートの封印」という大仕掛けを残して死んだ星新一、二つの巨大地震を経て、本来情の人であることを露呈して去った小松左京、宗教に消えた平井和正。
子供の頃見上げたSF草創期の巨人たちに、それぞれ相応しい(と我々無責任な観客が思う)最後の舞台を経ていたが、筒井康隆は念入りに「最後の舞台」を勤め上げるつもりなんだろうか。
息子さんが亡くなられるまではカクシャクとしていたのに、今は車椅子で、すっかりサイズの合わなくなった高級な背広に身を包み、殆ど表情も変えない筒井康隆ご本人の表情からは何も伺えない。
だが、最後奥様の付き添いもなく、車椅子に座ったままで窓辺に向かう背中を撮られることがどういう意図かを理解出来ない人ではないし、頭脳の衰えもないだろう。
あれこそエンドマークのための主役のラストカットとして「演じてる」感が強い。
ふと思うのは、九月に亡くなった唐沢俊一も、様々な選択を違うものにしていたら、こういう「最後の舞台」を、むしろ本人が強く望んで、大喜びで演じたのだろうなという「もしも」の話だ。
そしてB.Lさんの道半ば、唐突な世の「去らされかた」だ。
まあ、私は良くて道ばたで野垂れ死に、悪ければ孤独死して部屋を事故物件にしてしまうパターンだろうが、さてそれまでに書きたいものをどれだけ書けるか。というか書かないとね。生きてる者は生きねばならぬ。
飯食ってトイレ入って風呂入って寝て、何かしなきゃイケナイのでありまして。