「スウィッチブレード」こぼれ話

昨日ご報告した「読楽」さんの「スウィッチブレード」という短篇は、修学旅行で沖縄に来た女子高生たちとその担任教師のお話ですが、原稿書いた時点で指摘の入った部分がありまして。
「神野さん、今の子たちは『写メ』って言わないみたいですよ」
え?
慌てて、小中高生向けのイベントを手がけることもある知り合いにも話を聞いたら「ああ、確かに今の小学校中学校の子たちは『インスタ』っていうかなぁ」
との話でした。
お話の舞台がちょっと未来を想定しているので、今の小中学生が高校生になった頃は「インスタ」が主流かも知れない、ということで「写メ」を慌てて変更し、「写真」に「インスタ」というルビを振ることにしました。
これがその証拠写真。

 

 

 

 

 

 

考えてみれば「写メ」もメール付き写真のことで、携帯などで撮影する写真自体のことではなかったわけですし。言葉は移ろいますな。

それだけではなく、小中高生向けのイベントを仕切ってるその知り合いに言わせると「TwitterもFacebookも年寄りが口出ししてくる面倒くさいツール」で、小中学生はLINEで全て人間関係が完結していることに満足してることが多いそうで。
で、仲間内から世界へ向けての速効性がある上、否定的な意見を書き込みづらいセレブな雰囲気のインスタグラムはそういう意味で「安全で静か」な「外へのコミュニケーションツール」だと感じてるようだ、って話でした。

コロリと忘れがちですが、こういう細かいディティールというのは案外「自分が30歳までのもの」で情報が止まりがちなので、やっぱり小まめな日常リサーチは必要だよなあと思うのでした。

こんな夢を見た(0170730版)

いつの間にか坂上忍さんのテレビ番組に参加することになり、那覇の第一公設市場(それも平成ではなく昭和時代の)周辺が立ち退きになり「廃墟探訪」的にあちこちを回って中身を漁るという(漁って回収したものは後で持ち主から買い取るという仕組み)もので、私の他はゲストにプーチン大統領。
昔の乾物屋の二階にある小さな部屋に貼られた70年代アイドルのポスターや「明星」の切り抜きに子役時代の坂上さんが映っていて彼が照れたりという話がぱぱっと出て、ついでに70年代の衣装が詰まったタンスや、いかになベタベタシールの貼られた学習机の前で思いを馳せたりする内、プーチン大統領が「劇場版マクロス・愛おぼえていますか」の公開当時出ていたA4サイズの小学館発行のムックを探していると判明「だったら自分持ってますよ」と言ったら喜んだものの(あ、でもまだ内にあったかしら、もしもないって判ったら暗殺されるかも……)と思っていた所で目が覚めました。

フロイト先生、私、自殺願望でもあるんでしょうか。

松田優作とルパン、そしてコブラの呪い

一般向けを書くようになってから、「大人の男」を主人公として扱うとき、どうしても超えられない存在がいます。
山田康雄演じる「ルパン三世」野沢那智と松崎しげる、そして一度だけ山田康雄も演じた宇宙海賊「コブラ」、そしてもうひとり「探偵物語までの松田優作」

洒落てて格好良くて、強い。どこかユーモアもあって残酷にもなれる。
昭和40年代生まれは誰もが皆憧れ、親しみ仰ぎ見た存在といってもいいでしょう。
個人的には未だに、私たちの世代はこの三人を超える…………いえ、この三人のキャラクターを頂点とした基準枠の中を、日本のアクションもののヒーローたちは造形されている、と考えています。

…………あれ? 『ワイルド7』の飛葉大陸や『シティハンター』の冴羽燎は?
「あぶない刑事」のタカとユージは? 「西部警察」の大門さんは?

ああたしかに(恥)。

……異論は認めます。ええ、私の狭い視野の話です。
これはあくまで個人的な感慨というか、感想というか小説屋として創作作業をする上での視点、観念だと思って下さい。
神野オキナという作家の頭の中にある作業場にはそういう定規……基準器があるんだというお話。

さてそういう基準器があるせいで、自分の小説の中で「大人の男のキャラクター」を考える場合、ユーモアを口にするときに頭の中に浮かぶのはルパンの口調か、コブラの言葉か、松田優作の脅し文句ともおとぼけとも取れる間合いだったり、銃を抜く時の動き、歩き方、走り方、コーヒーの飲み方や趣味嗜好、立ち姿、走る姿……どこかこの三人のキャラクターが基準点として存在します。
彼らに如何に近づき、如何に離れるか。

一種の基準器としてこの三人が私の頭の中にはずっといます。
そして多分、私と同じ様な基準器をもつ物語作りの人たちは決して少なくはない筈です。

さてどうしたら彼らを超える新しい基準器を作れるのか。

私たちの上の世代……父親や叔父の世代にとっての小林旭や石原裕次郎、原田芳雄のような、あるいはスティーブ・マックィーンやジェームス・ディーンのような、時代のアイコン故に、なかなかそう簡単には超えていけないのは当然かもしれませんが。

さて。ここからちょっと余談。

個人的に残念なのは、松田優作という人は、その肉体と演技力の絶頂期にアクション俳優であることを止め、演技派俳優の道に転進してしまい、その助走用のジャンピングボードとして大藪春彦の傑作を使ってしまった、という所です。
乾いたムードと銃器への執着、そして権力への怒りをコントロール出来ないまま内包し続けた大藪春彦の、しかも初期の傑作2本、間違いなく大藪ファンは理想の役者を得て夢が結実したと思ったことでしょう。
が、ハードアクションのピカレスクロマンで突き進む「蘇る金狼」を松田優作は脚本家と監督と共に当時のスタッフたちの言葉を借りれば一種の「共犯関係」を結んで「滅びの美学」へラストを書き換えてしまいます。
原作では最後、主人公は女を愛しながらも刃を受けることさえせずに殺し、傭った私立探偵の顔を潰して一緒に焼いて自分が死んだことにし、悠然と、笑顔を煌めかせさえしながら飛行機のタラップ(昭和30年代後半が舞台なので飛行機にはそうやって乗り込むのが常でした)を上っていきます。
映画のように刺されて治療もせず飛行機に乗って、目的地について混乱したことを呟きながら事切れたりはしませんでした。
「野獣死すべし」に至っては「悪党パーカー」に並ぶほどに冷静沈着な、日本の戦後文学史上最初の確信犯型&純粋利益追求型犯罪者として、伊達邦彦は淡々と仕事をこなし、最後に貧乏な苦学生でありながら野心に燃え、伊達と共鳴し合って仲間になった、自分の共犯者に自分自身の絵姿を見いだして同情しながらも、犯罪の完全性を保つために射殺、涙を流しながら水の底へ沈めた後、念願のアメリカ留学へ旅立ち、最後の強烈な一文で終わるはず……が、伊達邦彦は戦場帰りの精神病質者に変わり、相棒は粗野で愚かな人間に変更され、当時流行りの残滓が残っていたヌーヴェルヴァーグ風に不条理な最後を遂げてしまいます。
伊達邦彦のファン、そして大藪春彦ファンとしては千載一遇の、そして最も不幸な映像化だったと思います。
まだ、仲代達矢が演じた伊達邦彦(こちらは当時の倫理観から映画会社の上層部にラストを変更させられて、アメリカに旅立つものの、空港に降り立った時点で逮捕されることが逡巡されます)の最初の映画版「野獣死すべし」や、こちらも最後は殺されますが、藤岡弘が伊達邦彦を演じた「復讐のメカニック」のほうがまだ原作の精神を受け継いでいるといえるかもしれません。

結局これ以後も、完全無欠のピカレスクロマンである大藪作品をそのままに映像化されたものは現れていません。
とても不幸なことだと思います。

…………とはいえ、やはり松田優作は魅力的な俳優さんでした。
特に、こういう動画を見てると、やはり原作通りに生き残る大藪ヒーローを松田優作で見たかったなあと思うのです。

その短いの最晩年、松田優作は「ア・ホーマンス」でアクションものに復帰、海外映画「ブラック・レイン」に出演しながらかつての仲間だった村川透監督と三作目で完結した殺し屋、鳴海昌平を主役にした「遊戯シリーズ」の続編を撮ろうと熱心に語っていたそうです。
残念ながら結局、彼は四作目の鳴海昌平を演じないまま、この世を去っていきました。

今息子さんたちが縦横無尽に、そして「このまま自分はアクション俳優で終わってしまうのではないか」という父の抱えていたであろう憂鬱とは無縁のように、様々な映画で様々な役をこなしています。
生きていたとしても松田優作はまだ70歳手前の筈です。松田優作が尊敬していた岸田森(彼も松田優作に先立ってかなりの早死にでした)と共に未だに生きていたら、今頃「相棒」とかのドラマにどういう役割で出ていたことでしょうか。

さて、そんなこと言ってる私もまた、物語作りの人間として自分なりの「大人の主人公」を作ってみました。

「カミカゼの邦」ご期待下さい。

もろもろ壊れる

ある朝、メインマシンが急にダウンしました。
ひょっとしたら過充電かもしれないということで、一端コンセントから電源コードを外し、一時間ほどしてから再び差し込んだら、電源部分の廃熱口から煙がぽわんと。
ぎゃー!
ということで大慌てでPCのメーカー、マウスさんに電話を入れたら「すぐ送って下さい」という話で、ドック入り。
今まで購入し、基本のセットアップはしてましたが放置状態のノートPCを取りだし、ひーこらいいながら細かいセットアップの続きを強行し、16Gから4Gの世界に押し込められて、その遅さに愕然としつつも(せめてすぐに8Gにアップグレードするべきでした)、何とかカントカ、ワープロ&メール送受信機能とウェブ巡廻能力だけは回復させて今に至りますが、やはり変換速度や微妙なユーザー辞書の違い、Skypeでのチャット中、いいなりATOKのユーザー辞書が機能しなくなる(原因不明)というような症状が出、ゲンナリしながらも8月刊行予定の「カミカゼの邦」のTwitterやウェブ用の宣伝のためにと久々にモデルガンのSIGP226を引っ張り出し、ダミーカートを装填して……と思ってマガジンキャッチのボタンを押したら、ボタンがからん、と外れまして。
金属じゃないABSモデルガンの哀しさ、マガジンキャッチを止めている部分が度重なる動作に負けて、スプリングとマガジンキャッチの小さな部品が填まっている部分が小さく割れて機能しなくなったというわけです。
壊れるときは壊れるものですが、もはやいつ再生産されるかも判らないモデルガン(BBガンと違い、ユーザー数が圧倒的に少ない=需要が少ない=再生産するコストが高い)なんで、ちと涙目になっております(※なおPCはすぐに修理が終わったらしく発送しましたというメールが来ました)
そんなドタバタの果てに撮影したのがこの写真です。

 

 

 

 

 

そんなわけで、「カミカゼの邦」どうぞよろしくお願いいたします。

平尾昌晃先生も逝かれたそうで

「カミカゼの邦」という作品を書きました。

お疲れ様です、神野オキナです。

この度「カミカゼの邦」という作品を書きました。
「あそびにいくヨ!」が終わり「疾走れ、撃て!」も完結して、以来、基本コメディ方向への作品ばかり連ねてきました。
「EXMOD」と「リラム~密偵の無輪者」はシリアス系に属しますが、あまり黒いお話にはせず、基本プロフェッショナルだったり、「人との関係性の変化」をメインにした切なさをテーマにして描いてきました。

これには「あそびにいくヨ!」開始から干支がひとまわりして新しい、若い読者のかたに向けて書いているというのもあります。
この辛いご時世に、ライトノベルにおいてまで辛い話は読みたくないよね、という思いもあります。
そういう意味で一番明るい方向に振り切ったのは「エルフでビキニでマシンガン!」ですね。
これはこれで楽しいですし、本来ライトノベルの人間ですから作りがいもあります。

ただ、時代に合わせて「使わない道具」というものも出来てくるわけです。
いえ、ペンだとかノートだとかという意味ではなく、単純に、レーベルごとの空気に合わせた微調整の方向性……ジャンルだったり描写だったり、キャラクターだったりという意味ですね。

今回の「カミカゼの邦」はそういう意味では「シックスボルト」以来、久々に自分の中にある色々な感情や思考を解放した作品となっています。

フルアクセルを踏み抜きました。

表現方法も、ストーリーもキャラクターたちも、一切手加減をしていません。
久々に、を乗り越えて、これまで踏み込んだことのない領域です。

日中が戦争するかも、という、沖縄に住んでいてこの10年、急速に膨らみはじめた悪夢と、それがもたらすであろう被害と闘い。
戦後、そこから派生するテロ、そしてwebが生み出す新しい人間同士の繋がりや利害関係のシステムと、「あり得そうな明日」を描くことにしました。
そして神野オキナ作品には珍しく「チームもの」になっています。

扱うものは戦争、テロ、復讐、虚無、欲望、愛、セックス……やりたい放題にやらせて貰いました。
普段の4倍、原稿用紙1200枚を超える初稿を仕上げるのに、たった2ヶ月しかかからなかったところを見ると、どうやらかなり、私は色々なものを鬱屈させていたようです(その代わり書き直しや整理に時間を取られましたが)。

そして、なんという奇跡かただ暗いだけ、陰鬱なだけではなく、読み終わった後に爽快感が得られるような作品が生まれました。

これまでの神野オキナ作品にはないタイプの主役ですし、脇役たちですし、物語になったと思います。

単に長いのではなく、「読み応え」のあるものが出来ました。発売までもう少しお待ち下さいませ。

※書籍データ

カミカゼの邦(かみかぜのくに)
著者 神野オキナ
発行 徳間書店
四六版
ISBN 978-4-19-864450-5
発売日(予定) 2017年08月29日
販売価格 1,900円 (税込 2,052円)

ゾンビの神様、逝く(緊急投稿)

G・A・ロメロが亡くなったそうで。
http://www.latimes.com/entertainment/movies/la-me-george-romero-20170716-story.html
テレビにまでゾンビがあふれかえるこの時代に、その再定義を生み出した人がいなくなるというのは時代の趨勢とは言え、諸行無常です。
「ゾンビ(日本公開題名)」をはじめて見たのは三十年以上前、国際ショッピングセンターという所が那覇市の国際通りにあったころ、三階のボウリング場に上がる途中にある中途半端な面積の踊り場が大きくなったようなレンタルビデオ屋兼映画グッズショップの店頭でした。
見た瞬間、飛び込んで来たのはショウケースをたたき割って銃器類を調達する場面で、「うわー羨ましい!」と当時モデルガンが欲しくて欲しくて溜まらんかった、金のない中学生は思ったモノでアリマした。

それまで「呪術士の命令で動く死体」でしかなかったゾンビを「のろのろ歩く、人を食う、噛まれたら増殖、頭を吹き飛ばさないといつまでも襲ってくる」ものとして再定義したことはやっぱりとんでもない「発明」だったと思います。

同時に「ゾンビとはすなわち現代人である」という批評性まで加えたわけですから(最もこれはご本人の意図に関わらず、急速にチープ化してしまう部分になりますが)。

ご本人は結局、ゾンビで映画人生を初めて結局ゾンビを作り続けて終わった、といえるような最後だったわけですが、表現者としてはゾンビというモノに囚われているような、あるいは「扱い慣れた画材」のように思っていたのか。

そして私も生まれて初めて完結させた長編が「ゾンビがあふれかえる世界で、軍用サイボーグが支配する街に流れ着いて、その軍用サイボーグと戦うことになった、バイクの女戦士」だった身としては、感謝を捧げつつ。

黙祷。

健康な生活とか肉体とか

基本、頑健な人というのは、よほど思慮深い人でない限り、病弱な人がどれくらい弱くて、状態がキツイかを理解しづらいものなんだろうなあ、と思います。

私の父も若い頃からスポーツマンで草野球のピッチャーまでやってたような人でしたからガリゴリの体育系。「気が緩むから病気するんだ」が口癖のような人でした。
母や大叔父はがんで亡くなりましたが、多分「病気」の中にがんなどの当時において致命的ものは入っていないという分け方をしていたんでしょう。
その母を亡くすまでは、私が小児喘息で喘いでいても「どうした?」とくわえ煙草でやってくるような所があり(この悪癖というか無神経さは晩年まで治りませんでしたが)、また情報が少ない時代でしたから「薬に頼って楽になると身体が甘えてしまい、弱くなる」という謎の考えでもって喘息の薬(ステロイド系)を出すような病院に行かせず、昔ながらの風邪薬、咳止めの粉薬を出すような病院にしか行かせませんでした。
さすがに母が大病して亡くなり、中学を卒業してもなお喘息に悩まされるのを見て、少し考えを改めたのか、高校になったらちゃんとした喘息治療薬を使う病院に行かせてくれましたが。
父に限らず、学校の教師や街行く人たちもメタボだのなんだのが遠い時代で、沖縄という土地自体が田舎の体育会系社会ですから「煙草は一日ひと箱、酒は底なし、昼飯はカツ丼」が男らしいということで、「煙草も吸わない、酒も飲まない」という人間に対しては「変人」という扱いになっておりました。
体育教師たちは、「身体は痛めつけるほど強くなる」と考え、部活中の水分補給は「甘え」どころか「サボり」と見なされました。
精神論、根性論が大手を振って歩いていた時代で、甲子園で肩を壊してしまったピッチャーとそれを命じ続けた監督を英雄としてまとめて奉りあげてしまうことが普通でした。

私が痔瘻という病気で初めて入院、手術をするハメになったのは、高校卒業直後の春先ですが、父は母の看病を思い出すのか、さっさと帰ってしまい、不安な思いで手術の朝を迎えたのを覚えています。

父が出稼ぎ先の名古屋で倒れたのは十数年後、60近くになってから。
沖縄からドタバタと駆けつけた私に、初めて父は「あの時さっさと帰ってすまない、一人で病院のベッドの上にいるのがこんなに怖いとは思わなかった」と謝りました。
さらに後年、心筋梗塞で入院し、ステント三本と弁膜の取り替えと白内障の手術までしたわけですが、その頃の父はちょっとした身体の具合が悪い、という知り合いに「とにかく病院に行きなさい」というようになっていました……そのくせ自分は「明日病院に行くからいい」といってやっぱり病院から逃げ回ろうとしてましたけれども。

恐らく病院に行けば煙草と酒をこっそりやってることがすぐにバレ、お医者さんや看護師さんたちに叱られるので、それがいやだったんでしょう。
どちらも辞めるという選択肢は最後までない人でした。

人間は経済状態の心配はしても、健康の心配をシリアスにする機会というのは、それこそ命の問題にいきつくまではなく、まして人より秀でた身体能力を持っていたりすればそうじゃない人は皆「バカ」に見えることもあるでしょう。

実際、私も十年近く前、60キロ近いダイエットに成功したとき「どうしてもダイエットできない」という人たちが「甘え」ているように見えたことがあります……天罰が下ったのかその後見事にリバウンドして今は着実なダイエットのためのアレコレに苦しんでいて、自分が如何に傲慢だったかが判りますが。

自分に出来ることが出来ない人は、何故それが出来ないのだろうと想像することもまた、大事な事だよなあと思います。

13代目ドクターは女性だそうで(後編)

さて、13代目ドクターは誰(WHO)?
ファンの間では様々な憶測が乱れ飛びました。
私が知ってるだけでもダニエル・クレイグの「007」で印象的な「Q」を演じたベン・ウィンショーからマーヴェル映画「ソー」の虹の橋の門番で「パシフィック・リム」の長官役でもあったイドリス・アルバにいたるまで、人種も役者の方向性も様々。

……とまあそういうわけで、さんざんファンをヤキモキさせた後、いよいよ新しい13代目ドクターは公開となりました。

新ドクターは女性で、ジョディ・ウィタカーという役者さんになりました。
その前にドクターの宿敵、マスターが女性となって再生したので、そういうことになるかもね、とは噂されていましたが、ビックリです。
面白いのは12代目ドクターの最後のコンパニオンは黒人女性の同性愛者という設定で、12代目ドクターとは「やんちゃな孫と頑固爺ちゃん」みたいな感じだったんですが、13代目が女性になる事で、ドクター・フー定番の「友だち以上恋人未満なドクターとコンパニオンの関係」が復活することになります。

しかしまあ、数年前「ドクターを残念美少女にしたら?」という思いつきで書き始めた時空冒険譚「イコライザー!」が図らずも先取りしたかたちになるとは(笑)
世の中というのはどう転がるか判らないもんです。

さて、13代目ドクターのお話はどうなるんでしょう。
マット・スミスの、子供っぽさとシリアスさを兼ね備えた11代目から、渋くて気むずかしい(同時にそれは思慮深さの表れでもあるんですが)ピーター・カパルディの12代目ドクターになってから、めっきり気むずかしい脚本になっていたスティーブ・モファットから、まるっきり新しい脚本とプロデューサーに変わるので、恐らくがらっと雰囲気も変わるでしょう。
個人的には「サラ・ジェーンアドベンチャー」のような明朗快活路線に行ってくれると嬉しいなあと思いつつ、イギリスらしい毒の利かせっぷりも見てみたいし、何よりも10代目ドクターに恋をしながら純情を貫いたオムニセクシャルのキャプテン・ジャック・ハークネス(スピンオフ番組『秘密情報部トーチウッド』の主役にもなりました)の復活が見たいと思っているんですが!

13代目ドクターは女性だそうで(前編)

タイムトラベルものの、というよりSFドラマで途中に中断を数年挟むも最長寿のシリーズは? と言われると唯一無二なのがイギリスBBC制作のドラマ「ドクター・フー」。
イギリス版電話ボックス(実際には警察専用回線と、一時拘留するための留置場を兼ねたもの)そのもの外見なのに中が異様に広い(何しろ「外見よりも中身が大きい」をさす単語として後に辞書に登録されるほど)タイムマシンにして宇宙船「ターディス」を操る、善良ながら謎めいた宇宙人「ドクター(本名はあるらしいんですが名乗ったことがないそうで)」と彼に連れられた地球人コンパニオンが繰り広げる時空を超えた大冒険はかれこれ半世紀を超えてなお愛され続けています(アメリカの大ヒット長寿ドラマ「ビッグバン・セオリー」での主役、シェルドンが最も愛する番組、そして「クリミナル・マインド」のドクター・リードとガルシアが好きな番組としてもファンには有名です)。

ユニークなのは演じている長期シリーズの抱える宿命的な弱点「主役の老化」を「ドクターは宇宙人なので死ぬほどの攻撃を受けると肉体を全く別人の姿、人格となって再生する」という設定にしてしまったこと。
まあこんな感じです

これにより、ドクターは「同一人物ながら姿形から性格まで違う」キャラクターとしてマンネリを防ぎつつ続くことの出来る作品になったのでした。

日本でも4代目ドクターの一部と、9代目、10代目のドクターの物語がNHKで放送されたことがあり、11代目、12代目ドクターの話はレンタルDVDや、ネット配信などで見ることが出来ます。

不思議なコトに(というより、同じ様に長期シリーズが長い中断を経ての復活だから見ていた子供が親の世代になっていたから当然でもありますが)平成仮面ライダーと同じで、再起動した9代目と10代目ドクターの人気はもの凄く、特に「子供の頃からドクターが大好きだった」デヴィッド・テナントに変わった、10代目ドクターの時には人気が爆発、並行して「秘密情報部トーチウッド」と「サラ・ジェーンアドベンチャー」という二つのスピンオフ番組がはじまり、12代目ドクターに変わってからも去年から「クラス」というスピンオフ作品が始まりました。

で、11代目ドクターから12代目ドクターにいたるまで7年にも及んでドクター・フーという番組を手がけていたスタッフも総入れ替えで、13代目ドクターの登場となったわけです。

さて11代目ドクターのマット・スミスから12代目ドクターのピーター・カパルディに変わるときも大騒ぎになった「ドクター・フー」しかも13、という西洋においては不吉な数字とされるこの代をどう乗り切るのか、なかなか情報が出ず、BBCもこういうCMを作ってさんざん煽っておりました。

ターディスのカギを大写しにするところから始まり「13」という数字があらゆる所に現れ……というハッタリの利かせっぷりは、渋めで抑えめなイメージのあるイギリスらしからぬ感じですが、それぐらい「ドクター」というキャラクターは愛されているのでしょう。

で、昨日、ウィンブルドン男子が終わった後、満を持して発表となりました。(続く)