ちょっと環望先生の「ソウルリキッドチェインバーズ」を応援

明日、環望先生の「ソウルリキッドチェインバーズ」の第3巻が出ます。
こういう表紙です。

 

 

 

 

 

 

これで「第一部」が終了となっていますが、第二部に続くには条件があると編集部から言われたそうで。
どういうものかというと、この3巻の売れ行きが一ヶ月で在庫の70%、つまり発行部数の7割を一ヶ月で売り切らないと第二部の続行はないんだそうです。
そもそも「ソウルリキッドチェインバーズ」って何? というとですね、ポストアポカリプスな未来、ゾンビが徘徊し文明が滅びかけた世界で「情報」を携えて旅をする青年にとある少女が仕事を依頼してきます。彼女はいかにも深窓のご令嬢らしい心の優しい穏やかな性格の少女なのですが、常に肌身離さずな熊の縫いぐるみは妙に口が悪く、しかも彼女を狙う連中もいて、それはこの世界にゾンビが溢れた秘密と関わりがあるらしく。
かくて逃避行の最中、ついに追い詰められた青年と少女、絶体絶命の最中、少女の手足が「取り替え」られたとき、チェインソーが死のエンジン音を奏で、ゾンビどもの手足が飛び散り涙が流れ、悪を滅ぼす死の舞踏(ダンスマカブル)が始まる……というようなハードアクション。

うちの作品が好きな方なら絶対に気に入ると思います。

正直、ここで終わるには惜しいですし、「続きが書きたいしそのポテンシャルもある作品なのに売れ行きで中断」という悔しさは嫌というほど、作家としても読者としても知っているので、ここは勝手に応援させて貰うことにしました。

環先生の代表作のひとつ、「ダンス・イン・ザ・ヴァンパイアバンド」の第二部「スカーレット・オーダー」が世に出たとき「普通に続くだろう」と思っていたら、結局「売れ行き」を理由に打ち切られ、一ファンとして唖然とした思いをしました。

最近も加遠宏伸先生の格闘アクションでありながら国際紛争ものというユニークな「大行者ナギ」とか、道明宏明先生のスペースオペラ「さよならジュリエッタ」とか続いて欲しい作品がありました。(興味のある方はタイトル名をクリックすると無料で一話が読めるところに飛べます)。

どんなに「いい作品」であっても「それを探している」人の所に届かねば売れてくれない、そういう現実があるのです。

さて、3巻が売れるには1巻が売れねばなりません。だって最初からお話を知らない人は、3巻からは買わないでしょ?

というわけで、まず第1巻の立ち読みが出来るソク読みのリンクから

ソク読み

面白いと思ったら是非書店発注、もしくはwebで紙の本、もしくは電書でお買い上げを。

Amazonのリンクから。

ソウルリキッドチェインバーズ1/環望 とらのあな通販

楽天ブックス/ソウルリキッドチェインバーズ・環望

ソウルリキッドチェインバ-ズ 1 / 環望 – 紀伊國屋書店ウェブストア 

e-honya ソウルリキッドチェインバーズ1巻・環望(電書もここで)

TSUTAYAオンラインショッピング ソウルリキッドチェインバーズ① 環望(店舗受け取りも可能)

「カミカゼの邦」について:その2

「クリミナル・マインド」というドラマがあります。
ご存じない方に説明すると、アメリカではかなりヒットしているテレビシリーズで日本でも人気があって、今12シーズンまで放送されてます。
そのシーズン9だったか、10だったかに「なんで昔のお伽噺は残酷だったか」という話があります。
その中で答えの一つとして出されるのが「子供たちが残酷な出来事に直面しやすかった昔は、お伽噺を語ることによって、前もってそのショックを和らげる必要があったから」というものです。
確かに昔のほうが警察も司法制度もなく、お伽噺のモデルになるような残酷な事件が「事件」として認識されず個人の「災難」として処理されることが多かった……ということが最近歴史研究の上では明らかになりつつあります。
翻って現在、子供たちが残酷な目に遭えばそれはすぐ……例外はありますが……司直の手が入り、行った者たちは批難されるようになりました。
ですが、残酷な出来事は人間が生きている限り存在します。
残酷な描写のある小説、マンガ、テレビドラマ、映画などの娯楽というのはそういうものに対する心構えを作る「今のお伽噺」なのかもしれません。
私が今回書いた「カミカゼの邦」はそういう意味でお伽噺です。
今現在、私が「そうなってしまったら怖い」と思う事を全てつっこみました。
例えば、それは沖縄が再び戦火に巻きこまれて誰かに(あるいは自分に)死が訪れたり、または日本という国が巻き込まれ、引き裂かれ、死んだほうがマシだと思うような恐怖や傷病に苛まれたりすることをも考えた「未来への恐怖」です。
ただ、悪夢を提示して世界は終わりだ、行き止まりだと叫ぶのは、それもまたウソだとも思います。
この世の終わりのようなことがあっても、人間は死ぬまでは生きていくのです、自動的に、あるいは受動的に。
私の父は酒と煙草を死ぬまで手放せず、そのために寿命を縮めましたし、当人も50を過ぎてから「俺はすぐ死ぬから好きにさせろ」と口癖になっていました。
が、それでも76まで生きていました。
人間は「うっかり死ぬ」よりも「うっかり生きる」ことのほうが多いのです。
だから「それでも生きていく人間」を描くことも同時にこの作品の目的になっていました。
政治的な「左」「右」の話ではなく、どの国に自分が所属しているか、でもなく、ただ「過酷な状況が発生するであろう状況に常に置かれている場所でそれが起こったとき、どういう風に世の中が変わり、自分たちが変わって行くか」という恐怖とそれでも生きていくことへの覚悟を描いたつもりです。
さらにもう一つテーマがあります。
人間は出自とか過去を背負い、それから逃れることは出来ず、しかし他の人間と関わることをしながら、何を見、考え、何を選んでいくかによって自分で自分を作り上げていき、そして最後は残る、残らずにかかわらず、また主義主張や思想、善悪にかかわらず、何とか己の生きていた証を世界に残そうとする……哀しくもおかしな生き物ではないか? ということです。
仏教の言葉で言う業や宿痾、という言葉が一番近いのかも知れません。それも描きたかったテーマなのです。
だから今神野オキナが出来る「全部のせ」であると同時に、バランス調整もできうる限り施した、これまでの20年で構築した作家技術を全て注ぎ込んだ大娯楽作品となっております。
1900円分、しっかりお楽しみ下さい。それだけのものになっております。

地元のラジオに出ることになりました(9月3日予定)

ちょっとしたご縁がありまして、RBCラジオの日曜朝9時からの番組「1000人の言葉」にゲスト出演することになり、琉球放送に数十年ぶりに足を運びました。
実を言うと今の建物になったばかりの頃……私はまだ中学生でしたが、沖縄唯一のアニメソングまで流してくれるラジオ番組「ナイトヤングメイツ」という地元番組があり、そこのパーソナリティの玉城美智子さん(2006年逝去)がよくイベントをやっておりまして、そのお陰でチョコチョコと琉球放送の中に入っていたという次第。
ですがさすがに数十年経過し、中に「あそびにいくヨ!」のアニメ版を放送してくれたQABも入って、となれば中は当然以前と違いまして、危うく迷子になりかけました(笑)
時の流れは不思議なもので、といえば今回「1000人の言葉」のメインパーソナリティである土方浄さんも、私が中学生の頃はスポーツ中継で走りまわるスポーツマンのお兄さんだったのですが、すっかり落ち着いたダンディなニュースキャスターさんになり、地元のニュース番組でお顔を拝見して「同一人物だ」と判っていてもやはり、実際にお会いするとなると「実感」として「ああ、凄いなあ」と思う次第で。
さて、緊張していたのでどうなるかと思いつつ、メインパーソナリティである土方浄さんのおかげもあり、無事に収録は終わり、むしろ土方さんに「慣れてらっしゃいますねえ」と言われてちょっと嬉しかったり。
内容はこれまでの経歴、そして新作「カミカゼの邦」に関するバックボーンをお喋りしました。
何事もなければ9月3日の朝9時の放送で私の声が流れるはずです。

「スウィッチブレード」こぼれ話

昨日ご報告した「読楽」さんの「スウィッチブレード」という短篇は、修学旅行で沖縄に来た女子高生たちとその担任教師のお話ですが、原稿書いた時点で指摘の入った部分がありまして。
「神野さん、今の子たちは『写メ』って言わないみたいですよ」
え?
慌てて、小中高生向けのイベントを手がけることもある知り合いにも話を聞いたら「ああ、確かに今の小学校中学校の子たちは『インスタ』っていうかなぁ」
との話でした。
お話の舞台がちょっと未来を想定しているので、今の小中学生が高校生になった頃は「インスタ」が主流かも知れない、ということで「写メ」を慌てて変更し、「写真」に「インスタ」というルビを振ることにしました。
これがその証拠写真。

 

 

 

 

 

 

考えてみれば「写メ」もメール付き写真のことで、携帯などで撮影する写真自体のことではなかったわけですし。言葉は移ろいますな。

それだけではなく、小中高生向けのイベントを仕切ってるその知り合いに言わせると「TwitterもFacebookも年寄りが口出ししてくる面倒くさいツール」で、小中学生はLINEで全て人間関係が完結していることに満足してることが多いそうで。
で、仲間内から世界へ向けての速効性がある上、否定的な意見を書き込みづらいセレブな雰囲気のインスタグラムはそういう意味で「安全で静か」な「外へのコミュニケーションツール」だと感じてるようだ、って話でした。

コロリと忘れがちですが、こういう細かいディティールというのは案外「自分が30歳までのもの」で情報が止まりがちなので、やっぱり小まめな日常リサーチは必要だよなあと思うのでした。

こんな夢を見た(0170730版)

いつの間にか坂上忍さんのテレビ番組に参加することになり、那覇の第一公設市場(それも平成ではなく昭和時代の)周辺が立ち退きになり「廃墟探訪」的にあちこちを回って中身を漁るという(漁って回収したものは後で持ち主から買い取るという仕組み)もので、私の他はゲストにプーチン大統領。
昔の乾物屋の二階にある小さな部屋に貼られた70年代アイドルのポスターや「明星」の切り抜きに子役時代の坂上さんが映っていて彼が照れたりという話がぱぱっと出て、ついでに70年代の衣装が詰まったタンスや、いかになベタベタシールの貼られた学習机の前で思いを馳せたりする内、プーチン大統領が「劇場版マクロス・愛おぼえていますか」の公開当時出ていたA4サイズの小学館発行のムックを探していると判明「だったら自分持ってますよ」と言ったら喜んだものの(あ、でもまだ内にあったかしら、もしもないって判ったら暗殺されるかも……)と思っていた所で目が覚めました。

フロイト先生、私、自殺願望でもあるんでしょうか。

松田優作とルパン、そしてコブラの呪い

一般向けを書くようになってから、「大人の男」を主人公として扱うとき、どうしても超えられない存在がいます。
山田康雄演じる「ルパン三世」野沢那智と松崎しげる、そして一度だけ山田康雄も演じた宇宙海賊「コブラ」、そしてもうひとり「探偵物語までの松田優作」

洒落てて格好良くて、強い。どこかユーモアもあって残酷にもなれる。
昭和40年代生まれは誰もが皆憧れ、親しみ仰ぎ見た存在といってもいいでしょう。
個人的には未だに、私たちの世代はこの三人を超える…………いえ、この三人のキャラクターを頂点とした基準枠の中を、日本のアクションもののヒーローたちは造形されている、と考えています。

…………あれ? 『ワイルド7』の飛葉大陸や『シティハンター』の冴羽燎は?
「あぶない刑事」のタカとユージは? 「西部警察」の大門さんは?

ああたしかに(恥)。

……異論は認めます。ええ、私の狭い視野の話です。
これはあくまで個人的な感慨というか、感想というか小説屋として創作作業をする上での視点、観念だと思って下さい。
神野オキナという作家の頭の中にある作業場にはそういう定規……基準器があるんだというお話。

さてそういう基準器があるせいで、自分の小説の中で「大人の男のキャラクター」を考える場合、ユーモアを口にするときに頭の中に浮かぶのはルパンの口調か、コブラの言葉か、松田優作の脅し文句ともおとぼけとも取れる間合いだったり、銃を抜く時の動き、歩き方、走り方、コーヒーの飲み方や趣味嗜好、立ち姿、走る姿……どこかこの三人のキャラクターが基準点として存在します。
彼らに如何に近づき、如何に離れるか。

一種の基準器としてこの三人が私の頭の中にはずっといます。
そして多分、私と同じ様な基準器をもつ物語作りの人たちは決して少なくはない筈です。

さてどうしたら彼らを超える新しい基準器を作れるのか。

私たちの上の世代……父親や叔父の世代にとっての小林旭や石原裕次郎、原田芳雄のような、あるいはスティーブ・マックィーンやジェームス・ディーンのような、時代のアイコン故に、なかなかそう簡単には超えていけないのは当然かもしれませんが。

さて。ここからちょっと余談。

個人的に残念なのは、松田優作という人は、その肉体と演技力の絶頂期にアクション俳優であることを止め、演技派俳優の道に転進してしまい、その助走用のジャンピングボードとして大藪春彦の傑作を使ってしまった、という所です。
乾いたムードと銃器への執着、そして権力への怒りをコントロール出来ないまま内包し続けた大藪春彦の、しかも初期の傑作2本、間違いなく大藪ファンは理想の役者を得て夢が結実したと思ったことでしょう。
が、ハードアクションのピカレスクロマンで突き進む「蘇る金狼」を松田優作は脚本家と監督と共に当時のスタッフたちの言葉を借りれば一種の「共犯関係」を結んで「滅びの美学」へラストを書き換えてしまいます。
原作では最後、主人公は女を愛しながらも刃を受けることさえせずに殺し、傭った私立探偵の顔を潰して一緒に焼いて自分が死んだことにし、悠然と、笑顔を煌めかせさえしながら飛行機のタラップ(昭和30年代後半が舞台なので飛行機にはそうやって乗り込むのが常でした)を上っていきます。
映画のように刺されて治療もせず飛行機に乗って、目的地について混乱したことを呟きながら事切れたりはしませんでした。
「野獣死すべし」に至っては「悪党パーカー」に並ぶほどに冷静沈着な、日本の戦後文学史上最初の確信犯型&純粋利益追求型犯罪者として、伊達邦彦は淡々と仕事をこなし、最後に貧乏な苦学生でありながら野心に燃え、伊達と共鳴し合って仲間になった、自分の共犯者に自分自身の絵姿を見いだして同情しながらも、犯罪の完全性を保つために射殺、涙を流しながら水の底へ沈めた後、念願のアメリカ留学へ旅立ち、最後の強烈な一文で終わるはず……が、伊達邦彦は戦場帰りの精神病質者に変わり、相棒は粗野で愚かな人間に変更され、当時流行りの残滓が残っていたヌーヴェルヴァーグ風に不条理な最後を遂げてしまいます。
伊達邦彦のファン、そして大藪春彦ファンとしては千載一遇の、そして最も不幸な映像化だったと思います。
まだ、仲代達矢が演じた伊達邦彦(こちらは当時の倫理観から映画会社の上層部にラストを変更させられて、アメリカに旅立つものの、空港に降り立った時点で逮捕されることが逡巡されます)の最初の映画版「野獣死すべし」や、こちらも最後は殺されますが、藤岡弘が伊達邦彦を演じた「復讐のメカニック」のほうがまだ原作の精神を受け継いでいるといえるかもしれません。

結局これ以後も、完全無欠のピカレスクロマンである大藪作品をそのままに映像化されたものは現れていません。
とても不幸なことだと思います。

…………とはいえ、やはり松田優作は魅力的な俳優さんでした。
特に、こういう動画を見てると、やはり原作通りに生き残る大藪ヒーローを松田優作で見たかったなあと思うのです。

その短いの最晩年、松田優作は「ア・ホーマンス」でアクションものに復帰、海外映画「ブラック・レイン」に出演しながらかつての仲間だった村川透監督と三作目で完結した殺し屋、鳴海昌平を主役にした「遊戯シリーズ」の続編を撮ろうと熱心に語っていたそうです。
残念ながら結局、彼は四作目の鳴海昌平を演じないまま、この世を去っていきました。

今息子さんたちが縦横無尽に、そして「このまま自分はアクション俳優で終わってしまうのではないか」という父の抱えていたであろう憂鬱とは無縁のように、様々な映画で様々な役をこなしています。
生きていたとしても松田優作はまだ70歳手前の筈です。松田優作が尊敬していた岸田森(彼も松田優作に先立ってかなりの早死にでした)と共に未だに生きていたら、今頃「相棒」とかのドラマにどういう役割で出ていたことでしょうか。

さて、そんなこと言ってる私もまた、物語作りの人間として自分なりの「大人の主人公」を作ってみました。

「カミカゼの邦」ご期待下さい。

もろもろ壊れる

ある朝、メインマシンが急にダウンしました。
ひょっとしたら過充電かもしれないということで、一端コンセントから電源コードを外し、一時間ほどしてから再び差し込んだら、電源部分の廃熱口から煙がぽわんと。
ぎゃー!
ということで大慌てでPCのメーカー、マウスさんに電話を入れたら「すぐ送って下さい」という話で、ドック入り。
今まで購入し、基本のセットアップはしてましたが放置状態のノートPCを取りだし、ひーこらいいながら細かいセットアップの続きを強行し、16Gから4Gの世界に押し込められて、その遅さに愕然としつつも(せめてすぐに8Gにアップグレードするべきでした)、何とかカントカ、ワープロ&メール送受信機能とウェブ巡廻能力だけは回復させて今に至りますが、やはり変換速度や微妙なユーザー辞書の違い、Skypeでのチャット中、いいなりATOKのユーザー辞書が機能しなくなる(原因不明)というような症状が出、ゲンナリしながらも8月刊行予定の「カミカゼの邦」のTwitterやウェブ用の宣伝のためにと久々にモデルガンのSIGP226を引っ張り出し、ダミーカートを装填して……と思ってマガジンキャッチのボタンを押したら、ボタンがからん、と外れまして。
金属じゃないABSモデルガンの哀しさ、マガジンキャッチを止めている部分が度重なる動作に負けて、スプリングとマガジンキャッチの小さな部品が填まっている部分が小さく割れて機能しなくなったというわけです。
壊れるときは壊れるものですが、もはやいつ再生産されるかも判らないモデルガン(BBガンと違い、ユーザー数が圧倒的に少ない=需要が少ない=再生産するコストが高い)なんで、ちと涙目になっております(※なおPCはすぐに修理が終わったらしく発送しましたというメールが来ました)
そんなドタバタの果てに撮影したのがこの写真です。

 

 

 

 

 

そんなわけで、「カミカゼの邦」どうぞよろしくお願いいたします。

平尾昌晃先生も逝かれたそうで

「カミカゼの邦」という作品を書きました。

お疲れ様です、神野オキナです。

この度「カミカゼの邦」という作品を書きました。
「あそびにいくヨ!」が終わり「疾走れ、撃て!」も完結して、以来、基本コメディ方向への作品ばかり連ねてきました。
「EXMOD」と「リラム~密偵の無輪者」はシリアス系に属しますが、あまり黒いお話にはせず、基本プロフェッショナルだったり、「人との関係性の変化」をメインにした切なさをテーマにして描いてきました。

これには「あそびにいくヨ!」開始から干支がひとまわりして新しい、若い読者のかたに向けて書いているというのもあります。
この辛いご時世に、ライトノベルにおいてまで辛い話は読みたくないよね、という思いもあります。
そういう意味で一番明るい方向に振り切ったのは「エルフでビキニでマシンガン!」ですね。
これはこれで楽しいですし、本来ライトノベルの人間ですから作りがいもあります。

ただ、時代に合わせて「使わない道具」というものも出来てくるわけです。
いえ、ペンだとかノートだとかという意味ではなく、単純に、レーベルごとの空気に合わせた微調整の方向性……ジャンルだったり描写だったり、キャラクターだったりという意味ですね。

今回の「カミカゼの邦」はそういう意味では「シックスボルト」以来、久々に自分の中にある色々な感情や思考を解放した作品となっています。

フルアクセルを踏み抜きました。

表現方法も、ストーリーもキャラクターたちも、一切手加減をしていません。
久々に、を乗り越えて、これまで踏み込んだことのない領域です。

日中が戦争するかも、という、沖縄に住んでいてこの10年、急速に膨らみはじめた悪夢と、それがもたらすであろう被害と闘い。
戦後、そこから派生するテロ、そしてwebが生み出す新しい人間同士の繋がりや利害関係のシステムと、「あり得そうな明日」を描くことにしました。
そして神野オキナ作品には珍しく「チームもの」になっています。

扱うものは戦争、テロ、復讐、虚無、欲望、愛、セックス……やりたい放題にやらせて貰いました。
普段の4倍、原稿用紙1200枚を超える初稿を仕上げるのに、たった2ヶ月しかかからなかったところを見ると、どうやらかなり、私は色々なものを鬱屈させていたようです(その代わり書き直しや整理に時間を取られましたが)。

そして、なんという奇跡かただ暗いだけ、陰鬱なだけではなく、読み終わった後に爽快感が得られるような作品が生まれました。

これまでの神野オキナ作品にはないタイプの主役ですし、脇役たちですし、物語になったと思います。

単に長いのではなく、「読み応え」のあるものが出来ました。発売までもう少しお待ち下さいませ。

※書籍データ

カミカゼの邦(かみかぜのくに)
著者 神野オキナ
発行 徳間書店
四六版
ISBN 978-4-19-864450-5
発売日(予定) 2017年08月29日
販売価格 1,900円 (税込 2,052円)

ゾンビの神様、逝く(緊急投稿)

G・A・ロメロが亡くなったそうで。
http://www.latimes.com/entertainment/movies/la-me-george-romero-20170716-story.html
テレビにまでゾンビがあふれかえるこの時代に、その再定義を生み出した人がいなくなるというのは時代の趨勢とは言え、諸行無常です。
「ゾンビ(日本公開題名)」をはじめて見たのは三十年以上前、国際ショッピングセンターという所が那覇市の国際通りにあったころ、三階のボウリング場に上がる途中にある中途半端な面積の踊り場が大きくなったようなレンタルビデオ屋兼映画グッズショップの店頭でした。
見た瞬間、飛び込んで来たのはショウケースをたたき割って銃器類を調達する場面で、「うわー羨ましい!」と当時モデルガンが欲しくて欲しくて溜まらんかった、金のない中学生は思ったモノでアリマした。

それまで「呪術士の命令で動く死体」でしかなかったゾンビを「のろのろ歩く、人を食う、噛まれたら増殖、頭を吹き飛ばさないといつまでも襲ってくる」ものとして再定義したことはやっぱりとんでもない「発明」だったと思います。

同時に「ゾンビとはすなわち現代人である」という批評性まで加えたわけですから(最もこれはご本人の意図に関わらず、急速にチープ化してしまう部分になりますが)。

ご本人は結局、ゾンビで映画人生を初めて結局ゾンビを作り続けて終わった、といえるような最後だったわけですが、表現者としてはゾンビというモノに囚われているような、あるいは「扱い慣れた画材」のように思っていたのか。

そして私も生まれて初めて完結させた長編が「ゾンビがあふれかえる世界で、軍用サイボーグが支配する街に流れ着いて、その軍用サイボーグと戦うことになった、バイクの女戦士」だった身としては、感謝を捧げつつ。

黙祷。