訃報:梶山浩先生

2007年に富士見で刊行された拙作「あくまデふぁんたジー!?」の表紙と挿絵を連載時から担当して下さった梶山浩先生が亡くなられたとのことです。


近年は漫画家としてもご活躍なされ、「Dual Soul One Body」を上梓、去年も「カースブラッド 」が刊行されてこれからという時に、大変残念です。

梶山先生はポップな絵柄からフランク・フラゼッタのような重厚な絵柄まで使いこなしておられましたが、まだ直接知り合う以前、私はフラゼッタ風の時の先生の絵で、R・E・ハワードの本格的な剣と魔法のオールドスタイルなファンタジーモノ、あるいはダークな雰囲気のスチームパンクファンタジーを書いてみたいと願っていました……が、ついに叶わぬままとなりました。
ご一緒に仕事をした方の訃報は初めてで、これ以上、何を書けばいいのか判らないのですが、とにかく、今は黙祷を。

追悼・加藤剛

数日前、俳優の加藤剛さんが6月18日に亡くなっていたことが発表されました。
私たちの世代(1970年代)生まれの人間にとって加藤剛といえばやっぱり「大岡越前」でしょう。
「清廉潔白」という言葉に着物を着せて丁髷を乗っけて刀を差したような、どこから見ても歴史に名高い「名奉行」かつ「正義の人」でした。
日本版グレゴリー・ペックのようなところが役柄にもご本人にもあったというのは色々な所で報じられている所でしょう。
現代劇でも時代劇でもその辺は変わらず、逆に数少ない犯罪者役だったりする場合はそのイメージでもって「何かがある」と見る側に思わせる力がありました。
それを上手く使ったのが映画「砂の器」でしょう。
ただ、個人的には「大岡越前」以外で加藤剛という俳優の役で印象に残っているのは「剣客商売」の秋山大次郞とTBS開局記念番組の「関ヶ原」での石田三成でした。
「剣客商売」は後に何度か映像化されて、藤田まこと版をよく覚えていらっしゃる方が今は多いと思います(まさか北大路欣也が最新版で演じるとは思いも寄りませんでしたが)。
中学校の頃初めて「剣客商売」を何の予備知識もなく読んだ時「大次郞は映像化したら若い頃の加藤剛みたいなんだろうな」とボンヤリ思っていたら実際その通りだったんで驚いた覚えがあります。
さて、主役である秋山小兵衛はともかく、大次郞というキャラクターは最初の加藤剛以後、何度も変更となりました。
これはもう最初に演じた加藤剛が、原作から抜け出てきたように「明朗快活な朴念仁」キャラをイヤミも無理もなく、見事に演じきっていた……というより原作の池波正太郎が、中村又五郎の小兵衛と同時に、大次郞を加藤剛を念頭に置いて執筆していたのかも知れないと思うのですが。

実際、「剣客商売」の最初のテレビ化は大次郞が旅に出て終わってしまいますが、実は加藤剛が「大岡越前」を演じるためにやむなく中断したものの、「大岡越前」が終わればすぐに再開する予定があったんだそうで。
結局「大岡越前」は大ヒット、ロングランとなり、やむなく番組の続編は泡と消えました。なお放送当時は小兵衛にしては大きすぎる、と評判が悪かった山縣勲の小兵衛はなかなかに「凄絶な過去を持つ剣豪でありながら、今はユーモアと冷徹さと人情味のご隠居さん」という小兵衛の難しい所を飄々と演じてて、これまたハマり役であったと思います。
その後、80年代に入り、小兵衛のモデルであると原作者が公表していた中村又五郎がそのまんま小兵衛を演じた時代劇スペシャル版(フジTVが時代劇復活を掲げて作った二時間枠の時代劇番組)における「剣客商売」2作においても加藤剛が大次郞を演じておりまして「原作者の理想」ってこういうのなんだろうなと思いましたが、残念ながら70年代版と並びこの作品もソフト化されておりません。

そしてもう一本が「関ヶ原」。

東映松竹系時代劇俳優以外の、時代劇の出来る俳優をありったけかき集めて全3回に分けて作られたTBS史上、最初で最後の大予算の時代劇テレフィーチャーにおいて、加藤剛は西軍の将、石田三成を演じておりました。

司馬遼太郎の原作はそれまで、迂闊で小賢しい官僚、あるいは淀姫の愛人として描かれてきた「汚れ役」石田三成を、徹底した「道理と義の人」として描き、そこに加藤剛という役者がはめ込まれることで、作品はほぼ作る前から完成していたといえるかもしれません。

正に「古狸」の森繁久彌の家康、真っ黒な演技が出来る時代の三國連太郎の本多正信(史料にあるとおり『他人から聞けば禅問答』と呼ばれた会話まで再現!)を筆頭とする東軍側に対して、西軍は島左近に三船敏郎、盟友の片方、直江兼続に細川俊之、そして命まで賭けたもうひとりの盟友、大谷刑部に高橋幸治……筆頭に並ぶ人たちだけでまあ物凄い。
特に業病の末期で、失明していても状況を冷静に判断し「お主、儂より目が見えぬか、この戦勝てるわけがない」と一度は参戦を断った大谷刑部が、琵琶湖のほとりでかつての茶会での出来事を思い出して引き返し、
「儂もお主ももう目が見えぬ、この命くれてやるわ!」
と言い切って手を握り、参戦を表明する場面は、正に相手が加藤剛の三成だからこそ説得力のある「絵」でした。(同じ回には東軍には家康と幼い頃からの側近、鳥居彦右衛門との別れの場面があってこれもまた老いた主君と家臣という枠を越えたいい場面で、しかもこの回のタイトルは「さらば友よ」というのがまた! 原作の司馬遼太郎と、脚本の早坂暁の凄さでしょうか)
そして華々しい合戦のあとの堂々とした三成の処刑と、その後に続く陰惨な戦後処理の果て、後の己と、己の家の運命を薄々感じ取ったかのように疲れ果てた本多正信が三成の墓を詣で、裏切った小早川秀秋が狂死するほど自己嫌悪するのも当然というか…

晩年は正義の人ながら腹に一物ある高級官僚を演じたり、現代劇におけるもうひとりの「正義の人」宇津井健と並んで、まだまだご活躍なさっていただきたかったですね。

(※文中一部敬称略)

永六輔という人(後編)

永六輔氏と言えば晩年、パーキンソン病を患い、あの独特な口舌も残念ながら衰えてしまいましたが、頭の切れは変わらず、あの伊集院光氏をもって「永さんはラジオの神様だからあれでいい」と言わしめていたわけですが、それが嘘のように消えた十数分間を私は覚えています。
NHKが創立60周年を記念して作った「テレビのチカラ」という番組です。
そこで永六輔氏と対談したのはあのおニャン子クラブやAKB48のプロデューサー、秋本康氏。
この時の永六輔氏は言葉もはっきりしており、テレビの歴史と自分の歴史を重ね合わせながら、今のテレビのありようとこれからについての意見を述べているわけですが、私にはその言葉の選び方、話題の出し方が、秋本康という今のテレビ業界、とくに芸能における最大にして最も若い(!)大物に対する遠回しな「遺言」いえ、「太い釘」を刺しているように見えてなりませんでした。
同時に言葉を紡ぎながらこの相手には無駄だろうと自覚しているようにも。
Twitterで本職のお医者様からのご指摘もありましたが、パーキンソン病の症状のひとつに表情筋が動かなくなることから皺がなくなるほど顔がつるんと無表情にになる、というものがあります。つまり我々が普段無意識にしてしまう、人を睨んだり微笑んだりする動作が難しくなる、ということです。
だからそう感じたのは私の先入観、妄想かも知れません。
ただ、永六輔という人は常に大人の、そして晩年は老人としての責任を全うしつづけた人でした。
大人であるころは間違っていると思う事には声を上げ、非難されながらも走りまわり、老人となってはこれに加え、「昔からあるよいものは守らねばならない」「物事は変わるからといって流されるがままにしてはいけない」ということを何かにつけて警告し、時には叱るということが必要だという考えに沿って行動していました。
これもまたそういう一幕……それも映像における永六輔というキャラクターの、最後の一幕だったのではないか。
そう思えてならないのです。

そしてそれを受けた人物が、あらゆる意味で自分がプロデュースしているアイドルグループに関わる事件が起こり、責任を取るべき時、問われるときにそこから逃げ続けている人である、という事実に、世の中というモノの皮肉を感じずにはいられません。


永六輔という人(前)

一昨日、7月7日は永六輔氏の命日だそうで。
永六輔と言えば、昭和50年代は沖縄に足繁く通っている時期があり(国際通りに沖縄ジアンジアンという小さな地下型のイベント施設があった頃です。劇場用アニメ『ウィンダリア』の予告と金田威功氏の『バース』の上映会もそこで行われました)、私も学校帰りのバスの中から国際通りを甚平姿で歩く姿を見たことがあります。
ラジオでは「誰かと何処かで」が夕方タクシーに乗ると必ず流れていた時代。
あの独特のしゃべり方と自ら「男おばさん」と呼ぶ感性の鋭い、でもどこかサバサバした視点からのトークは聞いていて一服の清涼剤でした。
あと「無名人名語録(というわりには収録されているのは名の通った人の言葉も多いんですが)」を筆頭としたエッセイ集の軽妙洒脱な語り口。


後に尺貫法制定の際にそれに反対して罰則規定を無効にしたりとか、小沢昭一氏と共に日本の「音」を録るべく、デンスケと呼ばれる小型のオープンリールテープの録音機材を担いで日本国中を飛び回って啖呵売などの貴重な「その当時はどこにでも聞こえたけれど、失われてしまうと二度と聞けないもの」を求めて走りまわっていたと知るのは後年のことです。
そして、何よりも当初は放送作家で作詞家で「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家でもあったと。
華麗なる転身というのは上手く行った後にその人を評しての話で、当人にとってはどういう理屈が自分の中にあったのか。
うちの父とおなじ2016年に亡くなってもう2年、死んだ時を一年と勘定しますから三回忌ということになりますか。
むしろ亡くなってからのほうが永六輔という人は存在感を増している気がします。
特に様々な意味で今、職業的選択を迫られている身としてはその時どうして永六輔という人は放送作家を止められたのか、作詞家を止められたのか、テレビ出演という最も大きな稼ぎを辞めることが出来たのか、その根源にあるのはなんなのかと思う事があります。(この項続く)

黙祷と追憶と恥の告白

起き抜けに、中学、高校時代の数少ない知り合いが亡くなったと知りました。
去年の12月だったらしく。
大きな人でした。
まずその体格が。
180センチぐらいはあったでしょうか
木訥ながら優しい奴で、また模型好き。
それもただの模型好きではなく、高校1年生の段階でプラ板だけで見事な 48分の1ぐらいのガンダムの頭や、同じく大スケールのダグラムのターボザックを作っていました。
「手が大きいからさ、市販のものじゃ小さいんだよね」
そう言って笑っていました。
模型雑誌でしかそれまで見たことのない「プラ板職人」とでも言うべき人が自分のすぐ側にいるというのは感動し、同じ中学に通い、私ほどではないにせよ、彼も趣味や外見の特異さをしょっちゅうからかわれてました。一時期は本土の牧師の人に引き取られていたらしく、そこで何を見たのか、経験したのか「神様とかそういうのを信じる人はろくでもない」ということを一度だけ、耐えきれないように口にしたのを覚えています。
中高生というのは夢が大きいもんです。
当時にはよくありがちでしたが、手を動かすよりも実際のSF大会やコミケに参加した時の体験を吹聴する人物が頂点で、ほかは資料や理論、知識を丸暗記して自慢することが多い周囲において(私もまだそのころはそういう人たちの群れの中でした)、彼はオタクの友人としては数少ない、しかもモデラーとしては唯一の「手を動かして作品を作る人物」でした。
彼に対しては恥ずかしい話があります。
高校の時、持久走大会があって、一緒にドベを走ってましたが、最後の最後、追い抜いてやろうと悪い心を起こして走った私を、にやっと笑うとあっという間に追い抜いてしまいました。
つまり彼は私に合わせてくれていたのです。
「何も言わずに抜けがけするなよ」
ちょっと呆れたように彼に言われ、恥じ入ったのを今でも覚えています。
高校を卒業してからは進路も違うため、なんとなく疎遠になり、10年ぐらい前に行き付けの模型屋さんで再会したとき、彼はまだモデラーをしていました。
あの頃作っていたものは、と尋ねると「あの頃は補強技術を知らなくて、作っては途中で壊してしまって、の繰り返しだったんだよ」と笑ってました。
「今はちゃんと完成させてる」とも。
そしてキット制作だけではなくフルスクラッチも続け、四分の1のマシーネンクリーガーなどを作っていました。
これがその一部。沖縄のマシーネン展示会に来られたことのある方は看板代わりのこのスーツを見たことがあるはず。

(写真は「niagalastudioの仮住まい」さんよりお借りしています)
私の「あそびにいくヨ!」がアニメ化された時、何も言わずに小説にのみ出てくる見事な「ルーロス改」をこんな風に作ってプレゼントしてくれました。
完全なフルスクラッチ。

設定通りのボディライン、オマケにタイヤカウルの上にある招き猫の小さなフィギュアまで! 驚く私に
「まだ作り込みが甘いから今度新しく作るよ」と行き付けの模型屋でたまにあうと、恥ずかしそうにそう言ってくれてました。

亡くなったのは去年でとっくに葬儀も終わったとか。
今年の沖縄のマシーネンクリーガーの展示会に私は行くことが出来ず、てっきり彼は来ているのだろうと思い込んでいましたが、実は出品どころか顔見せさえしておらず、主催者の方が気になって確認したところ亡くなったことが判明したと言うことで、私の所にも知らせが来ました。
残念でなりません

まだまだ彼には作りたいものがいっぱいあったと思います。

私も彼の作る模型を見ていたかったし、彼の目に叶うようなメカが出てくるような作品を書きたいと思っていましたが、それはもう叶わぬこととなりました。

本当に、残念です。