塩漬け物件

夏が来ました。
水分補給と一緒に塩の補給も大事です。外回りの後はきゅうりの塩漬けなんかいいかもしれませんね
ですが、作家の仕事の上で「塩漬け」というのはあんまりいいことを意味しません。
つまりそれは大抵「ある程度以上の作業がすすんだけど、お金にならず眠っている作品」という意味です。
また最近は電子書籍化されず放置されている作品を指差してそう呼ぶ場合もあるようです。
私にも幾つか塩漬け物件があります。
まずゲームのシナリオ。今の所三本あります。これは三本とも、会社が倒産してしまったので仕方がありませんが(※以下数百行削除)。
うち一本は絵まで仕上がりながら、だったので残念です(しかもテキストデータを消失)。
小説は現状、途中停止が四本、仕上がっていながら時機を逸して出版出来なかった作品が二本あります。
時機を逸した、というのは数年前の時代小説ブームの際、「今なら薩摩の琉球侵攻をネタに書いてもいいですよ」ということでその前後に思春期を迎えた元武田忍びを両親に持つ少年が青年に移りゆきつつ、戦乱に巻きこまれる、という連載をはじめたモノの、結局連載が終わる頃には雑誌が消滅。
作品は完結してたのですが、色々あって「やたら長い上に(500Pぐらいありました)未だに池永さんのテンペスト以外、大ヒットした作品もなく、しかもテンペストよりも古い、誰も知らないような時代を舞台にした作品はちょっと……」ということで棚上げになったものです。
もう一本は真っ向から薩摩の琉球侵攻を取り上げ、歴史上「愚行の人」「戦の原因」となった謝名親方は果たしてその通りの人だったのか? という作品でしたが、こちらもやはり同じ理由でダメでした。
それ以外に、書きかけ状態のものでいえば、以前ちらっとTwitterで取り上げた環望先生の「ダンス・イン・ザヴァンパイアバンド」と「あそびにいくヨ!」のコラボレート小説(現存するもので文庫本で350p分、更に100p必要なことが判明して中断、その後「ヴァンパイア~」が急展開して舞台設定そのものが使用出来なくなったので発表中止)。
ソノラマノベルスで出した「刃の王」の続編(冒頭10Pと外伝50P近く)、初の一人称小説になる予定だった「先輩女神(仮)」(※実験的に書きたい場面を先に書いて間を繋ぐという方式をとって全部で100P分が存在)などなど。

これ以外にも没になったプロットがおよそ百数十本はあります(中には何でこんなモノを提出しようと思ったのかというものもあるのですが)。

今ちょっと経済的にキツイ状態なので、そこを脱したらこれら塩漬け物件たちの塩を抜いてちゃんとした形で(自費による電子出版という形になるかもしれませんが)、世に送り出したいなあと思っております。

アニメ化から8年経ちました

去った7月10日は、今から8年前最も早い地域で「あそびにいくヨ!」が放送開始された日になります。
で、本日14日は二番目の地域での放送開始日。

ちなみに沖縄では3週間以上遅れた、8月10日がQAB (琉球朝日放送)さんでの放送開始日と言うことになります。

後半15分に、裏番組になぜか「けいおん!」の第2期が入ってしまい、当時沖縄の放送時間に合わせて実況Twitterをしていると、次々「そろそろ『けいおん!』に移るわ」的な書き込みが連続していくのを見て、なんとも寂しいやら悲しいやらの思いをしたことをほろ苦く思い出します。

それから早いもんでもう8年です。あと2年すれば10年です(当たり前ですね)
特典満載の国内版はともかく、北米版Blu-rayディスクが今や3000円前後でAmazonから買えるようになってしまいました。

本家本元の原作も終了して、早3年になります。これまでも色々と「あそいく」とエリスについて語ってきましたが、ほんとにこのキャラクターは作者の私にとっても最後まで謎の人でした。

ただひたすらにほんわかしていて、明るくて優しくて、能天気で前向き。

それまでどちらかと言うと、荒っぽい戦士系であったり、気高い女騎士(くっころナシ)、あるいはじっと影で主人公を見つめているタイプのヒロインばかり書いていた私としては、非常に珍しいキャラクターでした。

一応この前に、広江礼威先生の商業デビュー二作目「SHOCK UP!」のヘルメスという「指示が与えられている戦場では冷酷非情な戦闘マシンだけど実は指示がないとぐにゃぐにゃの駄目な人」なキャラを見て「これまで苦手だった年下の女性キャラは、こういう明るい属性を着けて描けるかもしれない」と気付いて、「南国戦隊シュレイオー」と言う作品で後輩キャラとしての実験をしていましたが、そーゆーキャラクターを主役ヒロインとして投入したのはなぜだったのか。

現在NOTEに公開されている「あそびにいくヨ!」の初期資料によれば(何しろかれこれ15年以上前の話なので、たとえ作者でもこーゆー資料がないと思い出せないのです)、エリスはあそこまで明るくはなく、いつも眠そうで、とにかくのんびり屋だけどもっとぐーたらしていて、何を考えているかニヤニヤ笑ってわからないキャラクターでした。
つまりもうちょっと陰性というか、影のあるキャラクターだったといえるでしょう。
猫と言えばこっちのほうが猫らしかったかも知れません(ただし成長した大人の猫)。

まあ自分でも今となっては思い出せない理由により、エリスは成長してご主人様の上にドテッと座るふてぶてしい猫ではなく、ハイテンションな子猫に近いキャラクターとなりました。

結果、第1巻を書いてる時はものすごく苦労しました初めてやることには不安がつきものですが今回は特別大きかったと思います。夜中に榊一郎先生の所へ電話を入れて相談を持ちかけたと言うのはホントの話です。
その時榊先生が
「いつも通りのヒロインにしたほうがいいんじゃないんですか?」
とおっしゃっていたら、「あそびにいくヨ!」は、3、4冊で終わっているちっちゃなシリーズになっていたかもしれません。
本当に世の中というのは不思議なものです。

かくして、エリスと言う不思議なキャラクターはヒロインとして降臨し、彼女を中心に物語は構築され、さらに土の中から、彼女のまいた種により、アシストロイドと言うちんまい福の神も呼び出され、20冊にも及ぶ大長編になったわけですが‥‥

この作品のおかげで本当に助かりました。作家としての能力の幅を広げたという意味も個人の経済効果にしても、この作品なしに今の自分は存在し得ないと思っています。
それだけにこの作品をどう越えていくのか、あるいはその面白さにどこまで近づきどこまで遠のいていくのか、当分の間これは私の宿題として目の前にずっと体されていくことになると思います。

では皆様これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

強殖装甲ガイバーのお話

今に至るも続く大長編漫画「強殖装甲ガイバー」の第一話が始まったのは私が中学に入学したその月でした。
徳間書店からマニアックな漫画家さんにSFやファンタジーを中心にした漫画雑誌「キャプテン」が刊行され、そのラインナップの第一弾に「ガンダムの」が取れて漫画家としての地位を確立しつつあった安彦良和の「クルドの星」、「軽井沢シンドローム」の大ヒット後を注目されていた、たがみよしひさの「GREY」と並んで現れました。



装甲強化服を生物(ユニット)として、装着者に「侵蝕」することで一体化し、戦闘時には「殖装」、システム的には装着者の「保護」目的で戦闘力を寄与するという考えと、敵である「クロノス」のネーミングや社会への滲透などの描写がこれまでにないハードなモノで、痺れました。
それだけではなく善悪入り乱れ、血みどろになりながら続く戦いとその中でほの光る人の善意や矜恃のディティールがまた素晴らしく。
1年が過ぎ、2年が過ぎ、私が高校を卒業するころには、間に中断を何度か挟みつつ、「キャプテン」の連載第1弾で続いている作品はガイバーだけでした。
当時OVA版が作られるほどの人気を保ったまま、というのは凄いことでした(当時、オタク向け漫画というのは綺麗に終わる作品というのは珍しく、中断したまま消えたり、終わるにしても随分投げっぱなしのエンディングというのも珍しくありませんでした)。
すでに「宇宙英雄物語」が終わり「トライガン」が大看板に成長しつつあるころです。
が、「キャプテン」は諸事情あって消滅。
やはり壮大すぎて物語は完結しないのか、と思っていたら復活しました。
しかもこの手の作品にありがちなテンションの下降やキャラクターの変容はなく、「前回の最後からそのまま時間が続いている」と実感出来るクオリティとキャラクターたちで。
角川書店の少年エースをベースに現在も続いておりますが、国内国外問わず、未だに根強いファンがいて、造形物も含め定期的に新商品が出、数年前のKindle版の大セールの時は並み居る強豪(その中にはエヴァンゲリオンのコミカライズ版もありました)をなぎ倒し売り上げトップを全巻で抑え込むということも起こりました。
で、先日海外から、こういうコスプレ写真が流れてきたほどです。

胸の膨らみ方や腰のくびれからするとOVA版で初登場した女性型ガイバーことガイバーⅡF(劇場版)」ですかね。
10代の頃にOVAや漫画、造形物でガイバーに触れた世代が未だに熱心に追いかけてきてくれていると言うことなんでしょうか。
そういえば20年ぐらい前まで人事異動の季節になると、沖縄に新たに配属になった米兵さんが「るろうに剣心」と「ガイバー」のアニメ版新作を探しに嘉手納基地周辺のTSUTAYAを巡るのはよく見たし、未だにファンな人は沖縄コミコンでも目撃しましたから、舞台を完全にアメリカに移して実写ドラマで、ってのもいいかもしれないなーと思いまして。
なお、ガイバーは二回、実写映画になっております。
予算の殆どをガイバーとゾアノイドに突っ込んだという低予算映画でしたが、当時一点豪華主義でSWのルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルが事件を追うFBI捜査官の役で出演してます。
1はともかく2の「ダークヒーロー」は崖から飛び降りながらの「殖装」シーンや、「タメ」や「キメ」を僅かながら使うアクションシーンはかなり力が入っていたと思います。
いいところだけを抜いて編集するとこのようにかなり格好いいMADが出来るほどです。

動画配信サイト花盛りの時代、いっそ本格的に海外に舞台を移し、低予算でも日本とは比べものにならない予算をかけた実写ドラマとしてガイバーをやるのはどうなのかしら、とつい夢をみてしまいます。

爆発とシートベルトと「あそびにいくヨ!」

動画配信サイトで、最近放送されたとあるドラマの第1話を見まして。
冒頭から爆弾騒ぎなのはいいとして、
主人公、爆弾を抱えさせた犯人もろとも真下に流れる河に飛びこむ→水中爆発&派手な水柱→無事に犯人と一緒に戻ってくる。

という展開に暫く考え込みました。

どうやったらそんなこと可能なのか。あるいはどうしてそんなことをさせたのか。
1965年製作の映画「007サンダーボール作戦」で海に飛びこんだボンドへ、スペクターのラルゴとその部下たちが銃弾を撃ち込もうとせず、手榴弾を次々「いそうな場所」に投げ込んで爆破し、衝撃波で危うくボンドが死にかける、という描写があって以来「水中爆発の衝撃波は水を伝ってくるだけで大ダメージ」ということはすでに知られている筈です。

私なら爆弾だけ、あるいは主人公のキャラクターによっては犯人に爆弾を抱かせて「ほら」と蹴り飛ばします。
恐らく海外ドラマなら爆弾だけを放り出すでしょう。

理由は三種類考えられます。

「実は飛び降りた瞬間カットが変わっているが、その時爆弾を犯人から引き剥がし(あるいは犯人が爆弾を何とか手放し、主人公たちが先に落ち、爆弾は水面近くで爆発、主人公と犯人は水中深く潜って衝撃波の影響がいまで一時的に沈んだので無事(ただし、電車の車両一台分吹き飛ぶ爆薬という説明があるので鼓膜が破れるとか、気絶するぐらいはありそうですが、そこは物語と言うことで……)」
「実は海外ドラマ『スコーピオン』の第3シーズンよろしく、実は先に爆弾を放り投げ爆発で起きる水柱の中に主人公たちは飛びこんでいた(この場合なんでそんなコトしたのかが判りませんし、そういう描写は本編中からっきしで、種明かしもされないのですが)」

もう一つ有り得る、一番つまらないのは局側から「犯人だけ突き落としたりすると主人公が悪く見えすぎる」&「主人公がアレな人であるというキャラが判る描写も入れてくれ」とかいう注文とクレームが来たんで、結局一緒に落ちてもらった、という下らない「大人の事情」かなーとも思うんですが、もしこれだとしたら、本当にやりきれない話。

で、なんで最後のような「事情」があるんじゃないかと私が考えるかというと「あそびにいくヨ!」の第2話で嘉手納基地へ主人公たちを助けにヒロイン二人が突入する場面があります。
「女子高校生が車で武装して嘉手納基地へ突入する、って大丈夫なのかしら?」
と思っていたら意外なところに「クレームがつくかも」と前相談がありまして。
ヒロインたちが車で基地の中に突入した後、「窓から身を乗り出してグレネードランチャー付きのアサルトライフルを撃つ」という描写があり「シートベルトは外しますよね?」と聞かれまして。
まあ確かに窓から身を乗り出してM16A2を撃ちまくるにはシートベルトを外さなくちゃいけません。
でも一時的に外して、すぐ戻すような描写にすればいいじゃないですか、と思いましたが、
「そこも作画枚数がかかりますし、それでも『走行中の車で一時的にシートベルトを外す行為』を問題にする人もいます。制作委員会かテレビ局に反対された場合、シートベルトさせたまま不自然な姿勢で撃つか、古いシートベルトのない時代の車(現行法ではシートベルトを着けるほうが違法なので亡いのは問題ない)を使うかになりますので、またご確認とご相談を」と。
個人的には
「むしろ16歳が車を運転して銃ぶっ放すのはいいのか?」
と再度思いましたが
「それは別に作り事だから構わないが、シートベルトの装着は問題である」
とのことで
「その際はお任せします」
と言ってたら結局制作委員会もテレビ局も
「問題無し」という結論がおりて、無事に真奈美はM16 A2の銃身下部に取り付けたグレネードランチャー撃っております。

本編ではたった10秒、これだけのシーンのために2週間ぐらい喧々諤々をやってて「アニメって大変だなぁ」と強く印象に残っています。

しかし「誰」シートベルトが問題になると言い出したのか、その「誰」かさんは「誰」が気にすると思ったのか、今になっても判りません。
何とも不可解な話ですがこれも一種の「忖度」ってやつだったのかもしれませんね。

ちなみに数年後、このアニメは嘉手納基地のお隣さん普天間基地で行われた沖縄コミコンで上映され大受けに受けておりましたですよ、ハイ(笑)

アニメ版「あそびにいくヨ!」は現在以下の所で観ることが出来ます。
「あそびにいくヨ!」
dアニメストア(定額見放題)

U-NEXT(定額見放題)

ビデオマーケット(購入必要)

Amazonプライムさんでも以前は配信されてましたが残念ながら現在は海外版Blu-rayが販売されているダケになりました(涙)
なお同じBlu-rayでも下の北米版(※ジャケットをクリックするとAmazonの販売に飛びます)よりも安く提供されているPAL版(UK版)は再生方式が違って国内のBlu-rayプレイヤーでは再生出来ません
あそびにいくヨ!: コンプリートシリーズ S.A.V.E. 北米版 / Cat Planet Cuties: Complete Series: S.A.V.E. [Blu-ray+DVD][Import]

原作版はこちらの画像をクリックしてください↓

アメリカの作家はやってるそうですが

アメリカの作家がやってて子供の頃「へー」と思ったのが「口述筆記」というやつです。海外の映画やテレビを見ているると70年代まではよく、会社の社長が社長室をうろうろと歩き回りながら

「よし、書き出しはこうだ、あー『親愛なるマディ』ちがった『やあマディ、お元気ですか』……これも違うな、『拝啓、インディグレイド夫人。今回はいつものように楽しいお話ではありません、あなたの夫の解雇について私は話さねばならないのです。あなたの夫には大変満足していますが、我が社は現在大不況の中、社員の削減を求められており』……君、ちゃんと打ってるかね?」
とか言いつつ、傍らで秘書がタイプライターをカシャカシャ打ってるあれです。
確かそれを小説でやっている作家がいると聞いたのは「トワイライトゾーン」の膨大な脚本をほぼ一人でこなしたロッド・サーリングだったと思います。
彼は朝テープで思いつくままに脚本をテープレコーダーに(当時のことですからオープンリールでしょう)録音し、秘書に預け、昨日秘書に渡して文字に起こしたモノを推敲し、数時間後に出来上がったものを自分で添削、翌日の推敲に廻し、ということを繰り返して、あの傑作群をものにしていったという話を本で読んで「それは格好いい」と思いました。
日本だと太宰治が電話で、あるいは寝床に伏せったまま口述筆記をさせたという話が残っていますが、さすがに文豪ともなると「あの文章がそのまま口から流れてきて書き留めたものはそのまま原稿になった」という話で。

幸い私が「作家になりたい」と思う頃には我が家にもテープレコーダーはありましたからこれ幸い、とやってみたんですが……私には秘書がおらず、結果として、「もっとも聞いていて違和感のある自分の声を聞きながら文章を起こす」という苦痛をせねばならないということで断念しました(しかも当時は手書き原稿でしたし)。
あと意外に話芸の訓練を受けていない素人というものは、当人は普段の会話で達者だと思っていても、創作の文章とナルトつらつらと流れるように作り話を流せないものなんですね。「あー」とか「えー」とかになってしまう。特に地の文にこれが多くなる。
これも聞いてて「下手くそ!」と自分で自分を罵り、上手く行かない原因でした。
あと自分で思うほど文章というモノが緊張して脳に浮かばないというのにも呆れて結局放り出しました。

ところが時代は巡ると「音声入力」はいまやスマホに搭載されて当然の機能となり、その精度も大分上がってきたようです。少なくともSiriなどはウィットに富んだ(時には富みすぎる)会話を出来ることは有名です。

で、最近行き詰まると万年筆でコクヨの原稿用紙に書いてみたりしてましたが、音声入力で書いてみるのはどうだろうと思って、行き詰まった時はやるようにしています。あと疲れ切った中、作品の要点整理のメモなどを作る時には重宝します。

もっとも音声入力と言っても当人の発音の仕方、及び特殊単語までは引き継いでないので、入力した後、手直しは必要ですが。

不思議なことに人間、喋る時のほうが書くときよりも頭が回転し、文章的にも多い分量を脳から出力できるようで、たった1時間で分量だけは4時間机に座ったのと同じ文字が口から出てきます。
そのままでは使えないのでやはり手直しが必要なのですが、それでも何度か改稿することを考えれば「第ゼロ稿」としては充分です。
文章書きにとって下書きにあたる「最初の原稿」が出来ることが大変ですから。
出来ればひと頃の志茂田景樹先生のように一日二日で一冊、と行きたい所ですが(志茂田先生は最も本を出してらした時期、当時出たばかりのMP3レコーダーだったかテープレコーダーで朝昼晩違う作品を吹き込み、それぞれ担当の秘書にテープから文章を起こして、それをチェックし書き直していたそうで)、まあそれはともかく。
上手い具合に万年筆と原稿、キーボード入力、そして音声入力を使い分け、停滞する時間をなるべく短縮することで生産性を上げていきたいなあと思っております。

電子書籍についての雑感

作家稼業というものをやっておりますと、昨今は印税の他に電子書籍の「売り上げ」というモノが入ってきます。
印税は出版社が「あらかじめこれだけ刷って販売するのであなたに前払いします」ということで原稿が出来上がって契約を結び、1万冊刷ったら1万冊の印税が著者には入り、実際には100しか売れなくても「返せ」とは言われません。

電子書籍からの収入は文字通りの「売り上げ」で、何冊売れたかを定期的にチェックし、その売り上げから私の取り分をまとめて支払う、ということになります。
大きな違いは出版社にとってのリスクと我々作家にとってのリスクの種類です。
出版社は「印税」で紙の本を印刷すれば大きく儲かります(といってもどんな本でも最低の採算ラインは2万部前後だそうですが)、また勝手に安売りされることがないように法律で保証された商品でもあります。
その代わり、本としての体裁を整えるための最低限の内容に指導とチェック(編集者と呼ばれる人たちがこれを行います)、校閲校正、版下の作成と印刷、流通へ支払う費用、売れなかったときのリスク(在庫を保管する場所の維持や送りかえされる時の流通費用など)は全て出版社の持ち出しで、それ故に作家の取り分は全体の10%に過ぎないか、あるいはそれ以下に設定されることが多々あります。
ただし、そのお陰で作家は印税というモノで最低限の収入を保証されるわけです。
売れなくなった本の作者は次の作品の部数を下げられていき、ある一定ラインを切ることが連続すれば(もしくは致命的に売れない、と営業が判断した場合)「もうあなたの本は出せません」となります。
商業出版の電書は基本それよりもやや高く作家の受け取る割合が設定されてはいますが、文字通り売れただけ。シビアな現実がお金になって跳ね返ってきます。
ですが、本屋に本を置くのには流通との契約、書店との契約と個人では難しいハードルが幾つもありますが、電子書籍にはそのハードルが低く設定されています。
電子書籍はそれだけで作る場合様々なソフトやアプリケーションが現在アリ、AmazonのKindleに至っては自動生成するシステムを無料で公開利用できるぐらいです。
ですから、最悪作家にその気があれば電子書籍を自分で出すことは可能で、その売り場はあちこちにあります。AmazonのKindleに至っては「うちで専売するなら定価の70%は著者に」と盟約するほどです(※ただし定価の下限あり)

ここで問題なのは多くの商業出版社が「紙の本」中心でシステムを運用し、電子書籍を敵視している、あるいは「オマケ程度のもの」という認識であることと、商業出版の場合「電書用の版下と印刷用の版下は現在同じシステムでは作れない」ことです。

単なるPDFなら問題ないのですが、電子書籍の様式(システム)は現在国内にKindleを含め、大きなものだけでも紀伊國屋、BOOK WALKER、BookLive、e-book japan、DMMブックス、Google play、honto、ibook store、Reder Store、ワニブックスのビューワー、ニコニコ静画等々も含めれば10種類以上あります。
それぞれのシステムに合わせて版下を作らねばなりません。
スマホで見るのかタブレットで見るのかPCでみるのか、それぞれの画面に対応することを迫られたりもします。
結果、現在は浮くはずだった流通費用と在庫保管(これが紙の本だと値段の3割を越え、在庫保管の費用と合わせると半分近くを占めることになります)の費用が浮かない……ということらしいです。
紙の本は本屋ごとに版下を変えたり判型を変えたりする必要はないですものね。
ですから「Kindle専売だと著者の取り分70%」というのはとんでもない飛び道具ではありますが、同時にそれが「飛び道具」になる素養は、この日本国内の電子書籍方式の統一性の無さに起因します。
さて、電書の印税ですが、最近よく苦笑いするのは、数年間で販売された冊数をトータルで計算すると、軽く紙の本の再版2、3回分になってたりする本もあったりすることです。
恐らくこれは「店頭になければ買えない」紙の本では逃してしまう売り上げです。
電子書籍の良い点は「どこにいようとクリックしてしまえば買える」ことにあります。
が、同時に殆どの出版社にとって今の所値段が上下する(紙の本ではないので保護対象ではない&Amazonの方針もアリ)電子書籍は現在(2018年)殆どの出版社において「本の売り上げ」としてカウントされません。
私の電子書籍の中には数年がかりではありますが、紙の本の再版分に匹敵する売り上げを出したモノもありますが、だからといって「又続きを」とはなりません。
現在はあくまでも紙の本の売り上げ(それもほとんどの漫画やライトノベルの場合は一週間の初動)がその作品の命運を決めてしまいます。

そして個人で電子書籍を出す場合、どうやって買ってくれる読者までその情報を届けるのか、という有効な手段が未だに見つかっていないという問題が解決されていないのです。

すでに個人書店が減り続け、反対にスマホやタブレットは増え続けているご時世です。
出版社、流通、本屋の関係とシステムが出来上がって100年以上経過しているそうですから、そろそろここいらで新しく「紙の本を売るやり方」を考え直すべき時にきてる気がします。
そろそろ「紙の本は初版のみだったけど電書で再版数回分売れた」という「本」も出てくるかもしれないので、収益の見方やシリーズの継続に関しても新たな基準が必要になると思うのです。

Twitterでも他の依頼原稿でも書いたことをまたここでも繰り返しますが、「本=紙の本&電子書籍=紙の本の敵」という考えを捨て去り、「電子書籍という新商品」に対する考えを変え、国内の電子書籍の基準を統一しないとマズイ時期に来てると思います。

個人的には紙の本自体が中身の周知宣伝のアイテムとして組み込まれて収益は電書で、みたいなビジネスモデルとか…あれ?何偉そうな事を私はいってるんでしょう?これは涙?

……てな冗談はともかく。

とりあえず自分の場合は「紙の本も電子書籍もどっちも売れて欲しいので、電書の発売時期を紙の本より遅くする制度は止めて欲しいなあ」と思います、ハイ。
※下の画像をクリックすると電書を含めた神野オキナの本の案内ページに飛びます。気に入った表紙をクリックするとさらに解説&販売ページに飛びますので、お買い上げよろしくお願いいたします。

色々作る時の思考

昨日は一オタクとしては「何でも楽しもう」という考えが幸せだし寛容である必要もある、とお話しをしました。
が、まあ矛盾するのが人間です。
自分がものを作る時は話が別になります。
観客モードから思考を切り替えて、己の声に素直に従って「あれはやるまい」とか精一杯自分の信じるモノを全部投入してやれることを全部やるのがベストです。
もちろん完全には行かないけど、その時、その瞬間、その場においてやれるだけはやる。
後悔するのはあとで「やらない後悔よりやった後悔」でいく。
西川伸司先生の漫画「日本特撮映画師列伝 」の中で、とある造形作家が寝不足と時間の無さに不本意な出来の怪獣の着ぐるみを納品して、その際ちょっと言い訳をしたら現場の偉い人に「視聴者には関係が無い、君はその言い訳を怪獣の背中にでも書くつもりか」と怒られるという挿話があります。
基本、物作りはそういうもので、お客の目に触れた時点で作者一人のものじゃなく、事情も観客には無関係です。
こういう話をしてると、なんか自分のクビを真綿で占めてきてる気もしますが(笑)で、色々なゲームや漫画制作の現場を取り仕切った経験のある知り合いの某氏に、
「締め切り守りつつ自分のクオリティを高め、あるいは維持するにはどうしたらよいのよ」と訊ねたら
「そりゃ簡単だ、多くの完成品をつくって世に送り出せばいい」
とあっさり言われました。
「完成品が多いほど普通、物作りは上手くなる。半完成品は夢の塊のママだからある程度まではいっても結局、当人が望むように上手くなることは絶対にない」
「じゃどうやって完成品を多く作る? とにかく適当に早く?」
「いいものを作るのは商売として当然。適当に作るんじゃない、手早く作って見直す」
「どうやって?」
「頭から最後までとにかく急いで、出来れば締め切りの半分の時間で一度完成させる。で、なるべく時間をおいて客観視する。そうしたら何処が足りないか、歪かが判る。あとは最低限の手直しでどこまでいけるかを考えて、手直しをする。締め切りギリギリまで」
「えーと、最低限の手直しって手抜きじゃ? 駄目なモノは全部作り直したほうがいいんじゃないの?」
「あのね、客観視した上での最低限の手直しってのは、手抜きじゃなく効率化の時間を取った上での最短距離。全部作り直しは気分はすっきりしてもドツボに入ると永遠に完成しない」
「…………でもさ、こう創作行為ってのは【天啓】というか【マジック】が試行錯誤の果てに最後の一瞬振ってくるもんじゃないの?」
「あー、それな。ただの錯覚。たまたまそれで上手くいった奴がそう言ってるだけ。第一即身成仏した偉い坊さんの周囲には山のようにしくじった連中の墓があるって話をしただろ? 仏陀以前&以後に同じ様に悟りを開こうとして歴史に残ってない連中がどれだけいるよ?」
「う……」
「第一、お前さんがそういう作家ならとっくにそうなってるだろ。なってない、ということおはそういう作家じゃないってことさ。その上でどうしていくかってことじゃないかね?」
「……はい」
「で、お前さんの仕事のやり方はどうよ?」
「うう……作っては矛盾に気付いた時点で戻ったり先にいったりしながら……やれるだけのことを全部ぶち込んでネタも……」
「今から20年ぐらい前に沖縄コミケの時に開田裕治&あや先生ご夫妻や唐沢俊一先生たちと一緒に来られてた睦月影郎先生になんて言われた?」
「【プロ(の作家)は手を抜くんじゃなくて力を抜くんだよ】って」
「それをオレ流に翻訳するとこーなる」
「……」
「お前さんは元々職人型の思考回路と創作方向なんだから天才のマネをしないほうがいいだろ? そっちの努力は間違った努力だと思うぞ?」
というわけで私は仕事のやり方を切り替えたわけですが。
その辺の事情はこちらの配信動画に。四回もあるんでお暇なときにでも。

レディ・プレイヤーワンとパシフィックリム・アップライジングを観てきました(※パシフィックリム・アップライジング編)

「パシフィックリム・アップライジング」は前作が東宝と円谷特撮映画&テレビシリーズへのオマージュだったとしたら、今回は良くも悪くも完全に東映とピープロのアニメ&特撮テレビシリーズで、同時にエヴァンゲリオンをアメリカが実写化したら戦闘場面はどうなるかという予行演習にも見えました。
(以下はネタバレになるので読む方は反転してください)

とりあえず、決戦の地は地理的状況を見ても第三新東京市です(笑)
第三お台場(仮称)に立ったまま動かないイェーガーが一機いましたが、次回作は何とかしてくれるでしょう(笑)
今回ある意味敵が出てくる理由とかは、いかにも東映っぽいですし、初っぱなに出てきて後半大活躍するのはどう見てもボスボロット(笑)。
ただ、一機だけグレートマジンガーなのかしらと思っていたら実はブラックオックスでした、というのは楽しいサプライズでした。
あとガーディアン・ブラボーのマツモト14号っぽいのはなんでだろうと思ったら……等など、色々入っておりました。
イェーガーたちの共闘は「マジンガーZ」原作版に出てくるマジンガー軍団そのままな雰囲気で、これはこれで楽しかったです。
前作にあった重いモノをスッパリ棄てて、ひたすら明るく楽しくくすぐりの部分も多く……「東京」の場面でとあるものがちらっと映ったり、前作のイェーガーの拳がインテリアに当たるユーモアの拡大版があったり。
決戦場への移動手段はGガンダム最終回でロボジョックスでしたし、クライマックスへの移動手段は私らの世代にとっては「ジェットスクランダー出現以前のマジンガーZだ!」で、若い世代にとっては「フォーゼだ!」だったり。

ただ、それらを除くと、驚くほどキャラ立ちがなく、物語は観客にロボットバトルとBGM以外の高揚感や感情移入、モチベーションを与えてくれない作品です(これは110分の上映時間にまとめる際の大幅カットがあるから、とは思いますが)。

スクラッパーの製作者の女性キャラは後半「一癖も二癖もありそうだったけど大して何も行動しない」ほかのパイロットキャラ達に埋もれてしまうし、ジョン・ボイエガ演じる主役は行動のモチベーションが不明なままなんとなく戻ってなんとなく再びイェーガーに乗り、なんとなく最後「オヤジほど立派な演説は出来ないが」と前置きして演説して敵を倒す、という感じです。

無理やり「興行的配慮で」善玉キャラになるようにしか見えない財閥のお嬢様(あそこでお嬢様は協力者ということにして、スクラッパーに乗るのは制作者の女性キャラと最初対立した金髪の人であってほしかった)や、マコの戦死後、指揮をとる司令官代理もどんな人かよくわからないまま殺されたり「実は」で立ち位置を変えるので、盛り上がらないこと夥しい作品となりました。
決戦の地が日本、というのもタダの言い訳に見えるほど距離感が雑ですし(だから最初決戦の地は第三新東京市、と書いたわけですが)、ユニコーンを映すぐらいなら、日本側に伝説の機体となったジプシーデンジャーが修理保存(あるいは再建造)されていて、という展開がよかったと思います、ええ。
とはいえ、今回から完全にマイケル・ベイのトランスフォーマーよろしくフランチャイズで続編ガシガシやりますよ!という体制が整ったので次はどうなるのか、ここからどう盛り返すのか注目したいと思います。
あと、ヘルボーイさんは今回出ませんでした。残念。

見終わった後も基地内見物をして、変なノートを買ったりしてました。

ゾンビの神様、逝く(緊急投稿)

G・A・ロメロが亡くなったそうで。
http://www.latimes.com/entertainment/movies/la-me-george-romero-20170716-story.html
テレビにまでゾンビがあふれかえるこの時代に、その再定義を生み出した人がいなくなるというのは時代の趨勢とは言え、諸行無常です。
「ゾンビ(日本公開題名)」をはじめて見たのは三十年以上前、国際ショッピングセンターという所が那覇市の国際通りにあったころ、三階のボウリング場に上がる途中にある中途半端な面積の踊り場が大きくなったようなレンタルビデオ屋兼映画グッズショップの店頭でした。
見た瞬間、飛び込んで来たのはショウケースをたたき割って銃器類を調達する場面で、「うわー羨ましい!」と当時モデルガンが欲しくて欲しくて溜まらんかった、金のない中学生は思ったモノでアリマした。

それまで「呪術士の命令で動く死体」でしかなかったゾンビを「のろのろ歩く、人を食う、噛まれたら増殖、頭を吹き飛ばさないといつまでも襲ってくる」ものとして再定義したことはやっぱりとんでもない「発明」だったと思います。

同時に「ゾンビとはすなわち現代人である」という批評性まで加えたわけですから(最もこれはご本人の意図に関わらず、急速にチープ化してしまう部分になりますが)。

ご本人は結局、ゾンビで映画人生を初めて結局ゾンビを作り続けて終わった、といえるような最後だったわけですが、表現者としてはゾンビというモノに囚われているような、あるいは「扱い慣れた画材」のように思っていたのか。

そして私も生まれて初めて完結させた長編が「ゾンビがあふれかえる世界で、軍用サイボーグが支配する街に流れ着いて、その軍用サイボーグと戦うことになった、バイクの女戦士」だった身としては、感謝を捧げつつ。

黙祷。