シミュレーション

そういえば今まで自分が書いたことのない主人公ってどんなのだろう、とつらつら思っていたら、「常に絶対的正義を振りかざす主人公」というのはそういえばまだ描いた事がありません。
現実はともかく腹の底から「私は善人です」「私のすることは絶対的な正義です」と胸を張って言うような主人公はおっかないなーというのが個人的な感覚の底の底にあるんでしょうか。
子供の頃仮面ライダーもウルトラマンも「自由と平和」のために戦ってましたしレインボーマンも「正義の味方」であっても「絶対正義」を標榜したりはしなかった、というのがあるのかもしれません。
反射的に嗜みと自分自身への「恥」のない人間はどーもなぁと思います。
絶対的な正義とか、善意とか言うのは存在してもその瞬間、場面にのみ成立するもので、恒久的じゃない、と。
冒頭でそうであっても、そこから自身の善意や正義を試されていく、というのであればそれは必要な「仕掛け」なんですが、それらを一切問われず、ただ主人公の正義と善意を作品中全ての存在から賞賛されるだけというのはどうも面白く出来ないよねと首を捻っております。

永六輔という人(後編)

永六輔氏と言えば晩年、パーキンソン病を患い、あの独特な口舌も残念ながら衰えてしまいましたが、頭の切れは変わらず、あの伊集院光氏をもって「永さんはラジオの神様だからあれでいい」と言わしめていたわけですが、それが嘘のように消えた十数分間を私は覚えています。
NHKが創立60周年を記念して作った「テレビのチカラ」という番組です。
そこで永六輔氏と対談したのはあのおニャン子クラブやAKB48のプロデューサー、秋本康氏。
この時の永六輔氏は言葉もはっきりしており、テレビの歴史と自分の歴史を重ね合わせながら、今のテレビのありようとこれからについての意見を述べているわけですが、私にはその言葉の選び方、話題の出し方が、秋本康という今のテレビ業界、とくに芸能における最大にして最も若い(!)大物に対する遠回しな「遺言」いえ、「太い釘」を刺しているように見えてなりませんでした。
同時に言葉を紡ぎながらこの相手には無駄だろうと自覚しているようにも。
Twitterで本職のお医者様からのご指摘もありましたが、パーキンソン病の症状のひとつに表情筋が動かなくなることから皺がなくなるほど顔がつるんと無表情にになる、というものがあります。つまり我々が普段無意識にしてしまう、人を睨んだり微笑んだりする動作が難しくなる、ということです。
だからそう感じたのは私の先入観、妄想かも知れません。
ただ、永六輔という人は常に大人の、そして晩年は老人としての責任を全うしつづけた人でした。
大人であるころは間違っていると思う事には声を上げ、非難されながらも走りまわり、老人となってはこれに加え、「昔からあるよいものは守らねばならない」「物事は変わるからといって流されるがままにしてはいけない」ということを何かにつけて警告し、時には叱るということが必要だという考えに沿って行動していました。
これもまたそういう一幕……それも映像における永六輔というキャラクターの、最後の一幕だったのではないか。
そう思えてならないのです。

そしてそれを受けた人物が、あらゆる意味で自分がプロデュースしているアイドルグループに関わる事件が起こり、責任を取るべき時、問われるときにそこから逃げ続けている人である、という事実に、世の中というモノの皮肉を感じずにはいられません。


永六輔という人(前)

一昨日、7月7日は永六輔氏の命日だそうで。
永六輔と言えば、昭和50年代は沖縄に足繁く通っている時期があり(国際通りに沖縄ジアンジアンという小さな地下型のイベント施設があった頃です。劇場用アニメ『ウィンダリア』の予告と金田威功氏の『バース』の上映会もそこで行われました)、私も学校帰りのバスの中から国際通りを甚平姿で歩く姿を見たことがあります。
ラジオでは「誰かと何処かで」が夕方タクシーに乗ると必ず流れていた時代。
あの独特のしゃべり方と自ら「男おばさん」と呼ぶ感性の鋭い、でもどこかサバサバした視点からのトークは聞いていて一服の清涼剤でした。
あと「無名人名語録(というわりには収録されているのは名の通った人の言葉も多いんですが)」を筆頭としたエッセイ集の軽妙洒脱な語り口。


後に尺貫法制定の際にそれに反対して罰則規定を無効にしたりとか、小沢昭一氏と共に日本の「音」を録るべく、デンスケと呼ばれる小型のオープンリールテープの録音機材を担いで日本国中を飛び回って啖呵売などの貴重な「その当時はどこにでも聞こえたけれど、失われてしまうと二度と聞けないもの」を求めて走りまわっていたと知るのは後年のことです。
そして、何よりも当初は放送作家で作詞家で「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家でもあったと。
華麗なる転身というのは上手く行った後にその人を評しての話で、当人にとってはどういう理屈が自分の中にあったのか。
うちの父とおなじ2016年に亡くなってもう2年、死んだ時を一年と勘定しますから三回忌ということになりますか。
むしろ亡くなってからのほうが永六輔という人は存在感を増している気がします。
特に様々な意味で今、職業的選択を迫られている身としてはその時どうして永六輔という人は放送作家を止められたのか、作詞家を止められたのか、テレビ出演という最も大きな稼ぎを辞めることが出来たのか、その根源にあるのはなんなのかと思う事があります。(この項続く)

黙祷と追憶と恥の告白

起き抜けに、中学、高校時代の数少ない知り合いが亡くなったと知りました。
去年の12月だったらしく。
大きな人でした。
まずその体格が。
180センチぐらいはあったでしょうか
木訥ながら優しい奴で、また模型好き。
それもただの模型好きではなく、高校1年生の段階でプラ板だけで見事な 48分の1ぐらいのガンダムの頭や、同じく大スケールのダグラムのターボザックを作っていました。
「手が大きいからさ、市販のものじゃ小さいんだよね」
そう言って笑っていました。
模型雑誌でしかそれまで見たことのない「プラ板職人」とでも言うべき人が自分のすぐ側にいるというのは感動し、同じ中学に通い、私ほどではないにせよ、彼も趣味や外見の特異さをしょっちゅうからかわれてました。一時期は本土の牧師の人に引き取られていたらしく、そこで何を見たのか、経験したのか「神様とかそういうのを信じる人はろくでもない」ということを一度だけ、耐えきれないように口にしたのを覚えています。
中高生というのは夢が大きいもんです。
当時にはよくありがちでしたが、手を動かすよりも実際のSF大会やコミケに参加した時の体験を吹聴する人物が頂点で、ほかは資料や理論、知識を丸暗記して自慢することが多い周囲において(私もまだそのころはそういう人たちの群れの中でした)、彼はオタクの友人としては数少ない、しかもモデラーとしては唯一の「手を動かして作品を作る人物」でした。
彼に対しては恥ずかしい話があります。
高校の時、持久走大会があって、一緒にドベを走ってましたが、最後の最後、追い抜いてやろうと悪い心を起こして走った私を、にやっと笑うとあっという間に追い抜いてしまいました。
つまり彼は私に合わせてくれていたのです。
「何も言わずに抜けがけするなよ」
ちょっと呆れたように彼に言われ、恥じ入ったのを今でも覚えています。
高校を卒業してからは進路も違うため、なんとなく疎遠になり、10年ぐらい前に行き付けの模型屋さんで再会したとき、彼はまだモデラーをしていました。
あの頃作っていたものは、と尋ねると「あの頃は補強技術を知らなくて、作っては途中で壊してしまって、の繰り返しだったんだよ」と笑ってました。
「今はちゃんと完成させてる」とも。
そしてキット制作だけではなくフルスクラッチも続け、四分の1のマシーネンクリーガーなどを作っていました。
これがその一部。沖縄のマシーネン展示会に来られたことのある方は看板代わりのこのスーツを見たことがあるはず。

(写真は「niagalastudioの仮住まい」さんよりお借りしています)
私の「あそびにいくヨ!」がアニメ化された時、何も言わずに小説にのみ出てくる見事な「ルーロス改」をこんな風に作ってプレゼントしてくれました。
完全なフルスクラッチ。

設定通りのボディライン、オマケにタイヤカウルの上にある招き猫の小さなフィギュアまで! 驚く私に
「まだ作り込みが甘いから今度新しく作るよ」と行き付けの模型屋でたまにあうと、恥ずかしそうにそう言ってくれてました。

亡くなったのは去年でとっくに葬儀も終わったとか。
今年の沖縄のマシーネンクリーガーの展示会に私は行くことが出来ず、てっきり彼は来ているのだろうと思い込んでいましたが、実は出品どころか顔見せさえしておらず、主催者の方が気になって確認したところ亡くなったことが判明したと言うことで、私の所にも知らせが来ました。
残念でなりません

まだまだ彼には作りたいものがいっぱいあったと思います。

私も彼の作る模型を見ていたかったし、彼の目に叶うようなメカが出てくるような作品を書きたいと思っていましたが、それはもう叶わぬこととなりました。

本当に、残念です。

神野オキナの作り方(80年代小説編)

年を食ってくると人間、自分のオリジンはどこから来たのかを考えるようになるものらしく。

そういえば自分は10代のころ、どういう小説を読んで小説屋を志したんだろう、とつらつら思い、パッチワークを作ってみました。
思い出すままに画像を貼っているので重要度とか発表順とかではありません。70年代に出ている作品もありますが「私が手にした時間基準」なのでお許しを(笑)

 

こうして見ると、本当に「三つ子の魂百まで」という言葉は正しいのだなと再確認します(笑)
こういう面白い小説のほかにも漫画やテレビドラマ、映画、エッセイ、雑誌が人生で一番しんどかった10代を支える「杖」でありました。
もちろん、これが全てというわけではありません。80年代に限って、ぱっと思い出せるのがこの辺というだけのことです。
願わくば、私の作品も誰かにとっての現実に対抗する為の「杖」でありますように。