今日はドラクエ一作目の発売日だったそうで

ドラクエと言えば思い出すのは、今は牧志公園というおしゃれで可愛い公園になってしまった「七つ墓(ナナチバーカー)」と呼ばれ、私が住んでいたアパート裏に広がっていたバラックと木造建築との間にあるような古い古い家並み。
その中のひとつに、M君という人が住んでおりました。
この辺の家並みに住んでいる人たちは、実は結構なお金持ちで、戦後の復興期に儲けたりした人たちがそのまま土地を買って住み着いたパターンでした。
当時は牧志の周辺は工場も多く、そこに直接出向いたりするのには都合が良かったんでしょう。
M君はそれとは関係なく、離島の人でした。
彼が住んでいる家は六畳二間ぐらいの平屋で、戦後すぐに建てられた代物。入ってすぐ4畳半ぐらいの庭(といってもコンクリートで固めた場所)の真ん中には木が生えていて、半ば建物自体がそれに寄りかかってるようなモノでしたが、実はこれ、離島への定期便なんかなかった頃、買い出し部隊が寝泊まりするための中継基地だったんだそうです。
だからMくんも、同居していたM君のお兄さんも実はいいところのご子息でした。
とても人柄が明るく、優しい性格の人で、同時に私と同じオタクでした。
高校は違っていましたが、共通の友人に引き合わせて貰い、家が近いこともあって、彼の家に私も一時期入り浸りになっておりました。
そこにはファミコンがあり、コンプティークがあり、PC9801がありました。
で、そこで生まれて初めてファミコンを弄らせて貰ったのが「ドラクエ」だったわけです。
とはいえ、まあレベル上げの最中でしたからちょっと五分ほど弄らせて貰った程度ですけれども。
それだけでドラクエの面白さなんか判る筈はありません。
でも貴重な機械を触らせてくれたM君の優しさと、プレイを教えてくれる嬉しそうな顔だけでいい気分になれました。
その後しばらくの間あの印象的なテーマ曲とSEを、彼の家に遊びに行くたびに聞いておりました。
M君の家はいろんな人のたまり場になっていて、そこで初めて私は自分より年下で色々苦しんでいる人や悩んでいる人たちに会いました。
私はどう対処していいのか判らず、ただ彼らを見ているだけでしたがM君は真剣に相談に乗り、時には叱責したり、励ましたりしていたようです。
同年代でありながら、知性だけではなく、器も大きい人というのに出会ったのはそれが初めてでした。
高校を卒業するとM君とお兄さんは私が別れを言う間もなく、風のように去って本土に移動し(工専に入ったと噂で聞きました)、M君の弟さんがそこに住むことになりました。
彼もまたオタクであったため、暫く出入りしてはいたのですが……こちらはM君と違って女性にもモテて、いつの間にか徒歩1分の家は縁遠くなってしまいました(ちょうどその頃、所属しているサークルと揉めたり、祖母が6年の寝たきり状態になり、亡くなるというドタバタの中にいたというのもあります)。
で、気がつくとM君の弟も家も、取り壊しになって、七つあった墓は移築されたか潰されたかして、小高い丘は削られ、今あるようなのどかな公園になってしまいました。
いまやドラゴンクエストと言えば、日本を代表するコンシューマーRPG、というだけでなく一つの文化を形成しています。
ファンタジー作品に与えた影響で言えば、指輪物語を凌ぐでしょう。なにしろ、ロードス島戦記よりも、スレイヤーズより早かったんですから。
何しろ堀井雄二といえば「オホーツク殺人事件」の人、もしくは月刊OUTの「ゆう坊のでたとこまかせ!」の人だったんです。
長い髪の毛をなびかせ、眼鏡を煌めかせた、いかにも育ちが良くて頭の切れる、でも楽しいお兄さん……というのが私たちの世代が知っている堀井雄二さんの当時のイメージ。すぎやまこういち、と言われれば「イデオン」でした。
ドラゴンボールはまだレッドリボン軍と戦ってるあたりのころ……いやまだ始まってなかったかな?
今でもあの音を聞く度に思い出すのは異様にすきま風が吹き込む、だけど暖かい雰囲気のM君の掘っ立て小屋のような家と、寒い土間のコンロで作った具無しインスタント鍋ラーメンの奇妙な美味さ、そしてそこにたむろしていた同年代、年下の少年達の顔です。そのうち数名は今でも顔を合わせますが、M君の行方は誰も知らないそうです。
とはいえ、きっと彼は上手くやっているだろうと思います。
今でもオタクであるんでしょうかね。
私が作家をやってるのは知ってるんでしょうか? 知っててくれると嬉しいですが。
高校の頃の知り合いは生涯忘れないと言いますが、行方を知っている人たちは半分もいません。
中には私の無神経さで遠ざかって言ってしまった人もいれば、私がその無神経さ、図々しさから遠ざけた人もいます。
これから先、どれだけの人たちにまた巡り会うのか、巡り会わないのか。
ただ、あの奇妙な、やたらと希望だけは未来に抱いていた時代が、しみじみと懐かしいと思える年齢にはなりました。

数十年前

ひさびさに、今から40数年前に住んでいた家を見てきました。

ここへ引っ越してきた時、母は雑貨屋を始め、病に倒れるまで3年ほど営業してました。「安物の10円お菓子は置かない」とかのポリシーがある当時にしては変な店だったと思います。借りていたのは一階でしかも向かって右半分は板戸一枚隔てただけで、開けるとよその家という状態ですから随分とおおらかな時代だったというか‥‥大雑把といいますか。

のちに右半分はキャバレーになり、そこの経営者一家が二階に住むようになりまして、息子さんとは仲良くしてた覚えがあります。おっとりした子で、当時放送されて大人気だった「コン・バトラーV」のバラ売り超合金を持ち寄って合体させたり(私は潜水メカが好きだったのでバトルマリンを持ってました)、豪華なステレオセットで初めて「老人と子供のポルカ」を聞いて薄気味悪くて、でも奇妙におかしな曲と左卜全の歌声が印象に残ってたり。

うちの親はキャバレーがとなりにあるのはいい顔をせず、また住居としては致命的なことに日の光が一切差さない家だったので(今思うに洗濯物とかどうしてたんだろう?)、のちにアパートに引っ越して以後日当たりに父が妙にこだわるようになりました。

私の子供時代一番幸せだったのは、この前に暮らしていた安謝大橋のたもとでしょうが、ここでは幼稚園時代を過ごし、母がちょっと太っていて、でも元気に走りまわっているのを見た最後の時期の土地でした。
また、オモチャを当然のように買って貰えた時代を過ごしたところです。

その後の話は、またいずれ。

半世紀近く前の沖縄→本土間の旅行のお話

 

親しくさせていただいている年上の方が二十数年ぶりに引っ越しとなりまして、少し前に亡くなられたその方のお母様が、色々と大事にモノを補完保存するという、昭和世代にはありがちな理由で色々なモノが出てきまして、処分する際に幾つかをお譲りしていただきました。
これは1970年、かの大阪万博に沖縄からその方のご一家が観光旅行に出向いたときの「思い出の品」の一部。
当時の観光旅行社から配られた日程表(および注意書き)と「観光のしおり」的小冊子、および万博会場で購入した絵はがきです。
日程表と注意書きはこんな感じで「服装」と「パスポートの管理方法」があるのが当時の沖縄の状況と(当時はアメリカ占領下にあるので外国扱い)、地方の日本人にとって、如何にまだ旅行というものが一般的な娯楽ではなかったか、という記録だと思います。
なお、那覇空港、那覇港、泊港の待合室、ロビーの案内図は当然現在のモノではありません(どちらも20年近く前に建て替え)。

そして、この「万博手帳」という小冊子がついてきました。
丁寧な日程表の他にこういうものがついてくると言うのは今では信じられない話ですが、それだけ「県外に出る」ということが如何に珍しく大変だったかを示すと思います。

 

服装の注意などの他、免税品(当時沖縄はアメリカ領土なのでウィスキーや煙草、缶詰類は定番のお土産でした)の持ち込み量の注意があるのが時代ですね。
またこの頃から「夏は本土のほうが暑い」という感覚があったことがうかがえます。
また、万博内施設の案内やエキシビジョンの時間、入場料などの細かい料金まで記載されています。

中でも個人的に一番驚いたのが巻末近くにある船の運賃表と飛行機の料金表でした。
東京まで往復で151ドル!
一ドル360円時代なのでつまり5万4360円。
たしか当時の大卒初任給が4~5万円ですから、1ヶ月分以上が飛んでいく計算に……消費者物価指数で換算すると現在の17万以上、給与比率で換算すると27万越え!! ファーストクラスではなく普通席で!
さらにこれに宿泊施設の費用がかかるわけですから一人旅でも、現在の感覚で30万~40万ぐらいかかる感覚でしょうか。
この12年後、私も一人旅で東京に行き二週間滞在しますが、その際父に「宿泊先は殆ど知り合いや従兄弟の所だったから安く済んだけど、それでも30万ぐらいかかった」と言われました(その年の頭、長患いの果てに母が死に、父は入院費や治療費の精算もかねて夏前に友人たちと起こした会社を辞めましたから、その金が出せたのはそのタイミングだったから、というのもあるんでしょう)。
ちなみに2018年の現在、私が上京する際はこの数年、ビジネスホテルの部屋を一週間近くをとって往復ひっくるめて7万前後ですから…うわあ。

確かに我々は未来に生きているといえるなあと思いました。