高名なアニメの監督さんが亡くなって

その人はこういう感じでこだわりの鬼で、気まぐれで、あらゆる意味で美しいモノを生み出す為には何でもする、怪物のようなクリエイターでしたよ、という周囲に居た人のインタビュー記事を読みました。
あの名作の裏にはこういうおっかないコトがあり、彼はこういう風にして時に作品の為に人を潰し、ストレスの塊にさせ、さらに自殺願望やらなにやらに巻きこんだ、という話。
これを読んで大抵の人が感じるのは「あんな名作を作る人が、なんて酷い人だったのか」だと思います。
ですが私は何よりも「楽しいモノの本質の中に必ず含有されるものは冷酷であり、美しいモノの本質に必ず含有されるモノは残酷である」という事実を思うのです。
その本質に果てしなく近づけば近づく程、人はどうなるか、と。
こう思うようになった理由は、十年程昔、とある映画監督が今は亡い映像系雑誌で初監督の時に書いた文章でした。
今手元に雑誌がないので大意ですが、「監督とは最終的に脚本の内容やカメラの位置、照明の配置から役者の演技、仕出し弁当の中身まで全てを【決め】それ以外を【切り捨て、次の瞬間忘れ去る】仕事なのだ、尋常じゃつとまらない」と。
同じ様に私のような小説屋を含めた個人で物作りをする人間や、映像関係の監督は「決断する人」であり、「決断し続ける」ことはやっぱ一種の狂気の沙汰である部分もあり、集団作業であればあるだけそれは尋常じゃない所へ踏み込んで行くんだろうなあと某監督の話を読みながら思い、それすらも自身の装飾品にする語り手に人外のものを感じました……が、同時に出版も含めた興業の世界には人外の「ヒト」がいなければ成り立たない、これまた尋常ではない部分がどうしても存在するのは事実なのです。
もともと娯楽なんてモノは先代古今亭志ん生が言ったとおり「あっても無くっても、どころか、無くっても、無くっても一行に構わない代物」なのです。
それで生きていくというのは実は尋常のことの外に出る必要があるわけです。
「なぜ、そんな話(あるいはモノ)を書くのか(作るのか)」最後に決めるのは自分です。
物作りで生きていくということは常にその選択を繰り返し、プラスにせよマイナスにせよ、その報酬を受け取り続けるという意味でもあります。
いや、実はどんな仕事に就いていても、荒野の果てにひとりぼっちで生活していても選択はし続けねばならないのでしょう。
……世間がコミケで沸く中、なんかちょっとそういうしんみりしたことを考えておりました。