「無限の猿定理」あるいは「猿にタイプライターを与えるといつかシェイクスピアを書く」理論

「無限の猿定理」というものが世の中にはありまして。
「巨大だが有限な数を想像することで無限に関する理論を扱うことの危険性、および無限を想像することによって巨大な数を扱うことの危険性について示唆を与える」ものであります。つまり巨大な数字と無限というものは別種であるから混同して考えてはいけない、というところでしょうか。
よく「猿にタイプライターを与えて叩かせ続ければいつか猿はシェイクスピアの一節ぐらい書くだろう」という風に表現されるそうです。
実際には「可能性というのははっきりした数字で表すべきで、無限の分母を持たせるとどんな極論でもあり得ることになるから無意味であり、数学的にはもっとダメ」ということでしょうか。
Wikipediaの文章に寄れば面白いのは「誰が最初にこの話を猿とタイプライターとシェイクスピアに例えたか」という話が真面目に論考されてきたという歴史があることで、この辺がカッチリ物事を定めたい数学関係の人たちの気質に繋がってる部分でしょうか。
さて、これほど論理的ではなく、もっと大雑把に「猿でもタイプライターを与えればシェイクスピアをいつか書く」というような謎理論にして物事を考える人たちというのはいます。
もっと簡略化すれば「こんなもの訓練(練習)すれば誰でも出来る」という言い方です。
人によっては「なぜなら自分には出来るから」というのが加わります。
が、それはまだマシなほうで「判らないから教えて」と言える。
問題なのは「誰にでも出来るんでしょ? 自分でも出来るけどその時間がないから君好きで身につけた能力なんだから適当にチャチャッとやってよ」というパターン。
もう一つは「私にも出来そうだから金になる仕事を即座に教えて」というパターン。
以前見かけた海外の1コマ漫画でイベント会場でヒーローの絵を描いてもらった少年が初老の漫画家(あるいはイラストレーター、アメコミだからペンシラーかもしれません)に「すごいや!15分で描いちゃった!」と驚くのへ、その描き手である初老の人物は「でもね坊や、15分で描けるようになるのに30年かかったんだよ」と思っている、というものがあります。

簡単にできそうだから簡単にできるとは限りません。

補助輪無しの自転車だって何時間も練習しなければ乗れません。
何より人に何か労働をさせるなら、対価が必要です。
これまでの作家人生で品物を納品してから印税を値切ってきた出版社はさすがにありませんが、シナリオを仕上げた途端「前回お支払いした報酬で」と言い出したところはあります。他にも色々。
もちろん言いなりに払うことが出来れば一番いいのですが、まず何かを頼むなら「幾ら必要だろう」と聞く。折り合わなかったら諦める、もしくは自分が支払える金額ギリギリにまで仕事のグレードを落としてもらう、というのがまっとうな筋というものだと思います。
好きでやってることは労働ではない、というのは間違いです。
好きでやって得ている能力なら、好きじゃない条件なのであなたの為に使わないという選択も正しいわけで。
労働と苦労、苦労と努力、努力と貧乏をどうも現在の日本ではごっちゃにして、本来違う意味での「清貧」という言葉に押し込めようとしてる気がしますねー。
子供の頃はともかく、大人になればある程度金銭的余裕がなければ創造する力なんて働かないんですよ。
絵や文章だけじゃなく、他人に何かを頼むときはどんなときでもなるべく報酬を用意しましょう、というお話。
そして、同時にそれが払えないぐらい貧しい人たちに無償で何かをしてあげるのも大事なことなのでありまして……あれ? なんでこんな話になってるんだ?

ひとつ言えるのは「あんなの誰でも出来るけどあなたは好きだからやってるんでしょ」と「私もやれそうだからやってみようかしら、お金になる所教えて」というのはどちらも大変、それを仕事にしている人、あるいは真面目な趣味にしている人をバカにしていることになるので、止めましょう、ってことです。ハイ。