父の最後を看取りつつ(その1)

父が人生三度目のICUに担ぎ込まれることになったのは、ちょうど「あそびにいくヨ!」の外伝「キャットテイル・アウトプット」の最終刊を書き上げたあたりだったと思います。

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色々あって「一人暮らしをする」といった二ヶ月後に、私の目が届かないのをいい事に酒と煙草とカツ丼食で心肥大で足が水で膨らみ、像のように足首が無くなった父を「明日いくから」というのを担ぎ込み、そこから半年、父はICUの中にいました。
一時はこのまま植物人間か、あるいは……と諦め嘆き狼狽えましたが辛うじてそれはなく。
これまで我が家の家計を支え、アニメ化までされた「あそびにいくヨ!」も「そろそろ終わりましょう」という編集部の提案もあって、その準備にかかっていた私は、他にもこの時に判明した諸問題(父の隠されていた金銭面もあれば父の生活態度……特に医者に固く禁じられ、親族からも懇願して止めるように言った酒と煙草と食生活も含む)が限界だと感じ、共倒れを避けるために、一人暮らしのアパートを引き払い、特別養護施設に父を預かって貰うことにしました。
父が亡くなる寸前まで、そこと週に1回から2回通い、本とDVD、あとお菓子類を差し入れ、近くのコンビニで一緒にコーヒーと軽食を買ってました。で、月に一回は一緒に買い物。那覇新都心の100円ショップなどを巡って足りないモノを補給、ちょっと食事するのが定番となりました。
検査で肺がんが見つかってからは半年ぐらいでしょうか、抗がん剤の投与と様子見で二ヶ月にいっぺんの割合で病院に入院するようになりました。
そこで浅学ながら初めて知ったのですが「ステージ」という分類はどこまで癌細胞が転移したのか、という意味で、ステージ1でも心臓の真裏(背中側)に出来、しかもこれまでの心筋梗塞と手術で弱り切った父の場合は手術が出来ないために助からない、ということでした。
「がん」と判ったときには色々と落ち込みましたが、父は至って平静で「来るものが来た」という感じで落ち着いてました。
当時は「癌を治さない」とかいう本が流行っていたのもあって、担当医の先生は丁寧に「抗がん剤を使いますか?」と聞いてきましたが、30年前、母の時は丸山ワクチンにまで手を出そうとした父は、「当然です、やってください」と答えました。
治らないなら、せめていつも通りの生活を出来る時間を長く取りたい、とはっきり言いました。
「どれくらい持ちますか?」
という父の問いに
「3年ぐらいと考えてください、でもまだはっきりとはわかりません」と
で、先生は父が病室に戻った後私に声をかけ「お父様にはああ言いましたが、ご家族は1年だと覚悟して準備してください。うまく抗がん剤が効いて伸びるかも知れませんが、逆の場合は大変ですから」と。
まるでドラマみたいだと思いましたが、祖母の時のような衝撃はありませんでした。
家に帰って遠く離れた場所に住んでいる妹にこのことを報告したとき、ようやく理解しました。
あの時は父がいたのです。
母の時には父と祖母が。
そして私は母の時はまだ子供で、祖母の時でさえ二十そこそこの若造でした。
だからどこかで安心して狼狽え、泣くことが出来たのだと思います。
ですが、父がいなくなるときにはもう、私しかいません。
狼狽えるとか泣くとか以前に、目の前に積まれていることをしなければなりません。
なによりももう40を半ば過ぎておりました。
仕事もあります。
「あそびにいくヨ!」の最終刊を仕上げねばなりません。
それが終われば「疾走れ、撃て」
結果、「あそびにいくヨ!」の最終刊の校閲はそのあとに編集部から来ました。
その時なりに一生懸命やったつもりですが、今見返すと最後の数巻は特に誤字脱字が酷いのは赤面の限りです。

このあたりで「このまま父と自分の為の仕事と作業をしながら生活するには自分だけではなく、第三者の目で監視が必要で、クオリティチェックも編集さんとは別に必要だ」と感じました(続く)

ポリティカル・コレクトネス

最近ではPCともいうそうで。
皮肉屋な人たちが暫く前「政治的に正しい」と翻訳してましたが、実際には
「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。 ウィキペディア」
「色々と面倒なことになった」という話もあれば「そこに対応するべき時代が来ただけのこと」という考え方もあります。
今から70年ぐらいまでは「ヘイズ法」というのがアメリカにはあって、女性の裸を見せること自体が禁止でしたし、さらに数百年前には「ピアノの足の曲線はエロ過ぎるので何か履かせるように」という謎のお達しもありました。
我が国で言えば「不倫をしたら刑罰」という「姦通罪」なんてものが1947年代まで存在しておりました。
面白いのは「姦通罪」の廃止を行うとき、賛成したのは年配者が多く、反対したのは若者たちだったそうです。
これには戦争という影によって多数の未亡人と、あくまでも夫を待っている「実質的には未亡人」が生まれたという背景もあるでしょうが、恋愛観が年齢と共に変化するという部分や、当時は普通に存在した「お妾さん」という存在も大きいかも知れません。
個人的には常識は移ろいますし、良くも悪くもインターネットの出現で世界中は「中途半端に繋がった」ために、色々物事が変わって行くのだろうなと思います。
ただ、女性に対する配慮や弱者に対する配慮というものと「そこに問題があることを描く」ことは別なので、安易な言論封殺にはならないといいなと思いつつ、今日も仕事をしております。

風の噂に

今年の10月から貧困対策費用や福祉の費用が削減されるそうですね。

そこで思い出したことがあります。
私はこの世を去るまでの最後の三年間、父を医療介護施設に預けました。
「食べたいときに食べ、飲みたいときに飲み、吸いたいときに吸う」という人で、心臓に心筋梗塞をやって以後も、どんなにお医者さんや看護師さん、子や孫が懇願しても煙草と酒を手放せず、あげく隠れて飲んだり吸ったりするようになり、ステントは三本、弁置換まで行い、ついにはICUに半年以上入院するという事態となりまして、心臓の病気も進行、それまでかれこれ25年、何とか同居して衣食住の面倒を見ていたのですが、生活サイクルも合わず、価値観も違いすぎる親との同居に加えて抱えている大きな仕事の山場を迎えて、「もうこれは第三者に管理して貰うしかない」ということで、医療介護施設にお願いしました。
それから3年後、最後に肺がんを発症した父は、余命1年が半年になり、入院するとそれが3ヶ月になり、3週間になり、1週間になり、最後は自分が見送った母や祖母がそうだったため、最も怖れていた「数年に及ぶ寝たきり状態」を過ごすことなく、あっけないほど簡単に世を去りました。
抗がん剤治療を素直に受けていたお陰で死ぬ前日まであちこち歩き回りアレコレ食事をし「今日来るならサンドウィッチを買ってきてくれ」と亡くなる当日に言いつけて、実際「苦しいなあ」と言ったのは最後の15分ぐらい。
その辺の事情は数年前の日記を参照してください。

そして、葬儀が終わった翌日、父の荷物を全て処分しようということで施設の部屋に行きました。
とりあえずゴミ袋に全部燃えるモノを突っ込み、その週のウチに友人に車を出して貰って全部処分しますが、出来れば燃えるごみ(特に衣類)をいくらかそちらのゴミとして出せませんか、と職員の人に相談したら、職員の人が暫く黙ってから、おずおずと
「あの、もしよろしかったらお父様の遺品、棄てるのならこちらにいただけないでしょうか」
と切り出されまして。
「でも服とかは……」
「肌着とかは抵抗あるかもしれませんが、うちの場合、病院から退院して身寄りがない人が生活保護を受けながら入るパターンが多くて……お金がなかったり、あっても入所にいたって購入しなくちゃいけないものを買ってきてくれる人がいなかったりするんです」
「確かにここにある父の服は(肌着も含め)全部洗ってますけど……」
なお、父が入所の際に必要だと言われて私が買ったモノは
低い(ベッドと同じ高さぐらいの)テーブル、パイプハンガーとそれにかけるためのハンガー、サンダル、コップ、箸類。3段ボックスと衣装ケース2つ分ほどの肌着と冬と夏の衣類。お出かけ用の服。歯ブラシなどの洗面道具。
さらに本人の希望でラジカセ、テレビとDVDデッキ(それと大量の本とお菓子、DVDを毎週要求されました(笑))。
最後のふたつと本やDVDはともかく、それ以外のものは最初は施設から貸与してもらい、その間にささっとホームセンターで買って、大きな物は配送を頼み、それ以外はなんとかタクシーに積んで持って来ました。
元から本を読んだら破って棄ててしまうような所のある人だったのでものに執着がなく、かなりささやかで、質素過ぎてちょっと申し訳ないなあと思っておりました。

ところが。

「これだけ贅沢なものを持ってる人はウチの施設の中じゃ数えるほどしかいないんです。家族や知り合いの面会さえ殆どの人にはないくらいで」
そういえばこの施設に私は最低でも週一回、場合によっては二、三回通ってきてましたが、土日に訪問客が溢れて……というのを見た記憶がありません。
平日の朝10時~17時までは施設の掃除のため、某病院のリハビリセンターに移動しますが、そこに訊ねてくるのは私だけでした。
「そちらのお父様はここの開設と同時に入ってこられたから出来ましたけど、幾つかの品物は貸与という形でお渡ししてるんですがもう足りなくて……」
「えーとじゃあ、歯ブラシ以外のコップとかも?」
「お願いします、食器類は特に細かいだけになかなか」
使いかけの入れ歯洗浄剤、半分残ったインスタント&粉引きのコーヒーも、入院前からちょっとずつ食べていた袋入りミニ羊羹の残りとか「欲しい人がいる」ということで、結局私がそこから持ち帰ったのはテレビとDVDデッキ(これはテレビはヘタをすると生活保護の対象外になる&VTRデッキぐらいしか使わない人が多いので要らないとのことでした)とアルバムぐらいでした。

最後に施設を後にするとき、施設の人が
「あなたのお父さんは幸せだったですよね。毎週あなたが見舞いに来たし、買い物もしてくれてたし、最低でも月に一回は外に連れて行ってくれてて」
としみじみ言われました。
親を施設に押し込んだという罪悪感と、その前後のドタバタで仕事のリズムを完全に崩されて大変な事になっていた私は、それだけでもありがたいと思ったのを覚えています。

それから3年近く。

10月の国家予算削減と、制度改革のアオリを受け、さらに職員の不足でその施設の存続が危ないという話を風の噂にききました。

そして、この話をTwitterに細切れにあげたところ「自分も親の時に同じことをした」という方々、「職員だけどうちの職場もそういうことは珍しくない」という方々からお返事を頂きました。
これは所得の低い沖縄だけじゃなく、日本全国で起きつつある現象のようです。
20年前祖母が他界したときはもっと手厚い福利厚生や医療保護があったと記憶してたのですけれども、国家財政の事情もあるのでしょうが、色々変更を余儀なくされ、福利厚生医療介護に関わる人たち、それに頼る人たちは大変に苦しくなっています。

間抜けのドディ

久々にお金をなくしました。

歩いて15分のスーパーに行くのと、歯医者への通院の以外は何処にも行かない。そして光熱費の支払いが来たらその日のうちに支払うために、ちょっと多めにお金を下ろしました。実際外に二時間以上出たのは「デッドプール2」を観に行くため以外、どこにもいきませんでした。

お金は銀行の封筒に入れ、税金支払い&通院用の鞄(国保やお薬手帳なども入った、ある意味簡易非常持ち出し)に入れておいて、さて今週、また歯医者の時期が近いので引き出しましょう……としたら、

封筒がない。

延々三時間以上、鞄と部屋の中をひっくり返しました。
適当にどこかにおいたイメージではなく、はっきりそこにしまい込んだはずのモノがない、というのは「何処を探せばいいのかわからない」という絶望があります。

それでもこの二週間、その鞄を持って移動したところへ(といってもお金を下ろしたその日の行動範囲のみですが)も回り、そういう落とし物がなかったかを訊ね、警察にも遺失物届けを出しました。

間の悪いことにその日の朝、燃えるごみの日だったので家の中にうっかり棄ててないかと、ゴミ箱を漁るということも出来ません。

真っ青になりました。

実を言うと今から12年前、見事に東京行きの航空チケットを部屋の中で見失って以来の出来事です(これも当日ごみの日だったため、何かの間違いでそのゴミの中に棄ててしまったのだろうと思ったら、半年後、まるっきり予想もしない変な所から出てきました)。

今回、前回どちらも親族が倒れ、部屋の中が混沌になった途端に発生した出来事です(今回は父が亡くなって以来混沌としているという違いがありますが)。

昔の翻訳海外小説風に言うと「間抜けのドディだ私は」ってところです。

3万円もあれば歯医者三回以上にかかり、歯を入れて、今月末までの自炊生活費になります。もしくは税金の支払い分に当てられます。

それが不注意でパアになりました。

こんな間抜けを起こすのは「忙しいから、今ぐらいいつもと違うことをしてもいいだろう」と思ってしまったことでしょう。

「どうせ歯医者にに行くんだから、通院用鞄に入れて老いたほうがいいよね」とか考えず「ちゃんとやっておく」ことが重要だったのです。

ああ、かっちりした生活サイクルをやはり作り、忙しさにかまけず部屋の整理を定期的に、今回濃っ祖徹底的に心がけることにします。

頑張って仕事して失った分を取りもどさねば。

とはいえ、諸事情合って、今年は夏を過ぎた後から本が出ることになると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします!