父の最後を看取りつつ(4回目&最終回)

妹に電話をしましたが仕事があるうえに家が病院よりも遠く……と思っていたら、これまでどんなときも我が家に親切にしてくれていた母方の叔母(母の姉)とその娘さんが偶然近くまで来たからと御見舞いのつもりで顔を出してくれました。
「どういうことなの?」と騒然とした病室で叔母に言われ、こういう偶然があるのかと溜息がでたのを覚えています。
こういうのも巡り合わせなんでしょうか。
そして、私と叔母とその娘さんの三人に看取られナースステーション前の病室からICUに移動するためのベッドがやってくる直前に父は「息が苦しいなあ、頑張らんといかんかなあ」と言ったまま、荒い呼吸をちょっと続けてました。
「もういいよ、頑張らなくていよお父さん」
そんな芝居がかかった言葉が自分の口からこんな時に出るとは思いませんでしたが、そうしないといけないと思いました。
これ以上「頑張る」ことは苦痛を長引かせることとイコールですから。
それから大きく、激しく何回か息をした後、父はぱたっと、という感じで息を引き取りました。

母は手術を繰り返しながら5年の、祖母は膿瘍瘍から来る脳死状態で6年の寝たきり状態で、生涯の殆どをその看護と費用の支払いに費やした父は、同じ様な寝たきりになることをこの世で最も怖れていましたが、幸いにも、そういうことにはならず、あっという間に近い形で世を去りました。

しかも4月の、冗談みたいに晴れわたった昼下がりに。

てっきり母のように父も夜遅くに事切れるだろうと自分が思い込んでいたことにその時気付きました。

そういうわけで、私は妹夫婦と、それでも付き合ってくれていた親戚一同のありがたい手助けもあって父を見送りました。
葬儀当日のドタバタは割愛。
終わった後の施設からの退去についてのことは前にも書いたとおりです。
さて、葬儀が終わると妹は遠くに嫁いでいるのでもう別の家、つまり私は世に言う天涯孤独になったわけです。
父の遺産と呼べるものは一切ありませんでした。
結局父は母と祖母の医療費と私たちの学費という名の借金を払い続け、50歳でそれを完済したあとは「自分の引退費用のために働く」として家にお金を入れず、私も仕事が軌道に乗ったので同居して光熱費家賃を全額負担し、さらに幾ばくかのお小遣いを毎月渡してましたし、さらに心臓をやってからは年金も10年以上にわたって受け取っていたはずですが、最後に施設に入るときには貯金ゼロで、年金をカタにした借金さえありました。
30歳を過ぎてから衣食住の面倒を見て、さらに小遣いという名目で生活費まで渡してその度に「いつ俺の商売はどうなるか判らないから10分の1でいいから貯金しててよ」というたびに「ああ大丈夫、いざとなったら独立してやっていけるから安心しろ」という会話を十数年続けたハテの話です。
それまでの間に、子供の頃に思っていた「立派なお父さん」像のメッキは剥がれ、嘘や見栄のツケが親戚を含めた「他者からの苦言」という形で私の所まで回ってきてましたから、ある程度の覚悟はしてたんですが。
まさかスッカラカンどころかマイナスになってるとは。
さすがにその時は揉めました(笑)
父が金を何に使ったのか、誰にくれてやったのかは大体の予想はつきましたが、父は決して口を割りませんでした。
それこそ「墓場まで持っていった」のです。
恐らく、父は母を失うまでの間に色々なものを投げ捨ててしまったんだと思います。特に神信心や将来の計画性というものを(前者は一度でも沖縄で喪主になれば痛感すると思います)。
そう私が考えに至るまでの話はまたいずれ。
とにかく、葬儀が終わって初七日が過ぎたあたりで「エージェント・オブ・ドラグーン」のタイトルだった「リラム」にゴーサインが出、執筆作業に入る前にその次の刊行予定になる「エルフでビキニでマシンガン!」の詳細プロットを作りはじめました。
「芸能人で良かった、親が死んでも笑って舞台に立てるんだもの」
と昭和の昔、誰かが言ったそうですが、そんな気分でした。
ちょっと自己演出の審理が入っていたのかも知れませんが、とにかく、仕事があるのは、本当にありがたいと改めて思いました。
「カミカゼの邦」のプロットにゴーサインが出たのもこのころでした。

 

 

 

 

 

 

 

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それが終わると「EXMOD」の元になる「メトロノームMOD」企画書を組み立てはじめました。こちらが刊行されるのは「カミカゼの邦」よりは早いモノの、翌年の2017年になります。
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さて年があけ、EXMODの直しをしながら第2稿を書いていたのが「カミカゼの邦」になります。
「もう天涯孤独だからなにやってもいいや! 全部ぶっ込む!」という覚悟が決まっていたからこそ書けた作品だと言えるでしょう。
こちらはさらに5稿までかかり、世に出ました。
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「カミカゼの邦」の第2稿と並列で直していたのが「軍師/詐欺師は紙一重」の1巻の2稿となります。
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結局、それでも作家としての経済にはこの数年間、なんだかんだで大打撃を受け、マネジメントの人の並外れた努力と助力にもかかわらず、私自身もヘタレたりして、未だに建て直しは進まず、という状況にあります――――正確にはマネジメントの人が立て直してくれたのでこの程度で済みました、といえるでしょう。
まあ生きてる限りは何とかしますし、何とかなるでしょう(そう思わないとやってられません、「こち亀」の両さんがいうように「まず生きる」にスイッチを切り替えて物事を考えないといかんですから)。

……というわけで、そんなこんなで2年が過ぎ、父がいないことはようやく「日常」のなかに組み込まれました。

ですがもう二度と使わない電話があって、あやふやな過去の思い出について問いただす相手がいないというのは、相手にどんな苦労をさせられていたとしても、やはり寂しいなあと思います。

何よりも「お話」への興味を生み出してくれたのは36歳で世を去った母でしたが、そのお話の興味がお話作りに変化する上でのコアになる映画や音楽を教えてくれたのは父でした。
小学生のころ、毎月1回父に連れていって貰う映画と、帰り道に必ず平和通りで食べてたざる蕎麦の美味しさは特別でしたし、一緒に歩くことが好きでした。
その頃の父はまだ「立派な父親」であろうと努力していたのでしょう。
そういうことを「立派であろうとする」ことを全部放り棄てた後もコロコロ太って三桁体重の私と違って、病気で肺に水が溜まったとき以外、最後まですらっと痩せてお洒落でした。
何よりも、「作家になりたい」と言ったとき「30までにどうにかならなければ諦めろ」という条件付きではありましたが、止めたりしない人でした(もっともこれは無関心の裏返しだったのかも知れません。父は生涯、私が何を書いているかを読むことはなく、他者に私の職業を口にすることも滅多にありませんでしたから)。

そして今年、三回忌が過ぎて、ようやく色々な意味で父を赦すことができるようになりました。

できれば父の年齢を追い越してから、そしてちゃんと葬儀費用を作って、葬儀をしてくれる人の為に多少のお金を残してあの世にいくためにもお仕事です。

4回にもわたってダウナーな話にお付き合い、ありがとうございました。