父の最後を看取りつつ(その3)

さて、父の話ですが少し時間を巻き戻します。
まだがんが見つかる前、父に衰えが見え始めたのは、弟の様に可愛がっていた(という割にはかなりの迷惑もかけていたのですが、それでも気にせず我が家と付き合ってくれた気のいい)叔父と一緒に自衛隊の演奏会に行ったときでした。
心臓の事もあってそろそろ杖を使うようにしたほうがいい、という医者の言葉にもかかわらず「めんどうだから」と言っていた父はその日、席へ移動する最中に階段から脚を踏み外して転びました。
幸い、鼻の下を軽く打って鼻血が出た程度で、翌日病院に行ってCT検査までして貰って「異常なし」でしたが、それいらい歩き方がちょっと変わりました。
それでも「面倒くさい」と杖を使おうとしなかったので、「杖がなければ外出しない」と私も、父とはかなり離れたところにすんでいる妹とその子供たち(つまり父にとっては孫)も厳命したため、渋々使うようにはなりましたが、それでも父は杖を嫌がってました。
ものぐさな人でふらっとどこかにいってふらっと戻ってくるのが好きだったためもあるのでしょう。
さて、父の治療が始まりました。
父は抗がん剤を投与された当初こそぐったりしたりもしてましたが、次第に慣れてきて、また入院先が真新しくてスターバックスみたいなカフェもあるため「チーズバーガーとホットドッグが好きだがどっちかといえばホットドッグ」という父はそこのホットドッグを喜びました(ただすぐに昨今のおしゃれなもっちりバンズになったため、総入れ歯の父は地元のファーストフードA&Wのホットドッグを買ってきてくれというようになりましたが)。
社交性も高い人だったので(とはいえ昭和の男性ですので子供としては馴れ馴れしいのとどう違うのかという所もありましたが)、看護師さんとの関係も、同室の人たちとの関係もさほど悪くはありませんでした(昔は積極的に仲良くなろうとしてウザがられたりもしてましたが、さすがにもう最後の時だと覚悟した以上、そういうところにまで気を遣いたくなかったのでしょう)。
最後に外出したとき、那覇新都心で映画を観ました。
ちょうど007の「スペクター」が公開されていましたが、10分遅れて映画館に入ったため、10分後に上映の始まる「コードネームUNCLE」を見ることにしました。
「何の映画だ?」と首を捻る父に「ナポレオンソロだよ」と言ったら「ああ」と納得し、60年代舞台の映画を観て楽しそうにしてました。
それが、父と最後に見た映画で、最後に食べたのはイタリアンレストランのスパゲッティでした。映画館のあるショッピングモールからレストランまでの1キロ足らずの距離を、二度も休憩をいれて移動する時点で「もういかんのかもしれない」とうっすら感じたのを覚えています。
とはいえ、そのあと数か月病院と施設を行き来し、年も明け、父は「長く歩かなければ大丈夫」と杖を使いたがらないのは変わらず元気で、少し痩せた、程度でした。
それが明らかに変わったのは2月からでしたでしょうか。
明らかにフラフラしはじめました。当初は抗がん剤の影響か、と思いました。
なにしろ食欲は相変わらずでしたし、ピザーラのピザを買っていったら「やっぱピザはフチまでパリパリしたシェイキーズのがいい」と言われて苦笑してたぐらいです。
2月半ばのある日、お医者さんから「一年と言いましたが半年か、もっと短いかも知れません」と言われました。
「とにかく早いうちに会いたい人に合わせておいたほうがいいですよ」と。
とはいえ、父の親友と言って私が思いつくのは二人だけです。
そして片方は父がICUに半年入っている間に重いがんで死去し、もう一人は色々あって距離を置いている人でした(あとで聞いた所によると実際にはその方はもうその頃すでに身体が弱っていて、会える状態ではなかったようですが)。
「とりあえず、来週、学会から戻ってきたら再検査しましょう」
そうお医者さんが仰ったのは3月の末。
「疾走れ、撃て!」の最終刊、12巻が発売される直前のことです。
※表紙をクリックすると解説のページに飛びます

父は動きもよたよたしてはいましたが、それでも自力でトイレに行き、ラジオを聞いてましたが、4月のある夜電話で「ラジオが壊れた」と言い出しました。
その頃私が手がけていたのは「エルフでビキニでマシンガン!」の企画書で、「大交渉者(仮)」というタイトルの異世界ファンタジーモノのプロットが仕上がって編集部に送ったころだと思います。
この「大交渉者」がのちに大改変と紆余曲折を経て「軍師/詐欺師は紙一重」という作品になります。

仕方ないので新しいラジオを買って翌朝病院に行くと、もう容態が急変していました。
「今週いっぱい」と当直の先生はいい、ならいつものように録りためたお昼のラジオ番組のカセットテープが聴きたいだろうと思って(今思い返せば、母が死んで以後酒と煙草と競馬以外何の趣味も持たなかった父が唯一せっせと毎日やってることでした)、施設の人たちに許可を貰い、父の部屋に入らせて貰い、手当たり次第にベッドの下に収納してあったカセットテープの山を90リットル入る大きくて厚手のビニール袋に詰め込んで病院に戻ると「今日一日持つかどうか」と看護師さんから告げられました。