布教と強制とお薦めのお話

私は自他共に認めるデブなだけにスポーツが嫌いです。
一応今もウォーキングをなるべく日課にしてたりはしますが、歩くこととか一人でやる運動に関してはあまり好き嫌いと言うほどではないです。
ただ本格的なスポーツ、特に団体競技というのは苦手で、また「自分の速度で」出来ない走るスポーツも苦手です。

そもそも70年代生まれの世代において、「プロ野球」は好きなアニメ番組を潰す最大の敵でした。どちらも今では信じられませんが夜7時から10時ぐらいまでのゴールデンタイムを使って放送されていましたから。
裏番組がプロ野球のナイター(と当時ナイトゲームを呼んでいました)が始まると、野球好きの父親を持っていれば、しかも父親が家にいれば強制的にアニメは消えます。
「来週もアニメはやってるだろう」という父親の言葉がこれほどじれったく思うことはありませんでした。
来週は違う話なの!といっても「同じアニメ」=同じ面白さ=来週も同じ≠目の前の筋書きのないドラマである野球
で、アニメ<野球という理屈です。
「侍ジャイアンツ」のように高く飛でもなく「巨人の星」のような魔球があるわけでもないリアル野球の面白さは当時の私には理解出来ませんでした。
また父は「観れば分かるだろう」が口癖の人なので解説何かしてくれません。
結果、私はますますリアルの野球から離れていきました。まだ張本が巨人で黒いグローブをはめてバットを振ってた頃の話。
皮肉にも、この状況は私の母が早世し、病室にあった小型テレビが我が家に戻ってくることで解消されてしまうのですが。

最近、Twitterで「スポーツ好き」な人が「嫌いな人」たちに向けて「みんなを集めて、ちゃんと教えれば良かったのに」と発言して集中砲火を浴びまして。
実際には発言者は「スポーツが嫌いだったけど今は少し興味のある人たちに声をかけ」と前提を絞り込んでいればこういうことにはならなかったと思いました。
Twitterはそこが怖いところです。
ただスポーツばかりじゃなく、オタク趣味や作品のいわゆる「布教」や「お薦め」にはこの手の「はいみんなあつまってー!」な要素や行為がつきまとうので、やはりここはテキ屋の人たちの「さあさみなさん御用とお急ぎでない方は……」という話芸を何とか身につけたいところです。

具体的に言うと今は亡き内藤陳さん、アニメ特撮系の評論技術を立ち上げて現在の形にした人たちの一人、池田憲章さんの心意気と文章力。
特にアニメックに掲載されてた「SFヒーロー列伝」がなければ、仮面ライダーをはじめとする東映変身ヒーローの評価は恐らく20年単位で遅れてたんじゃないでしょうか。80年代の雑誌連載記事の中、単行本化を今も待つ人は多い傑作連載のひとつです。
今は信じない人が多いのは幸いですが、80年代まで「東宝&海外特撮映画(50~60年代)」を頂点に「円谷のテレビ特撮(Qからセブンまで)=海外特撮テレビドラマ(サンダーバードなど)→帰りマン以後の円谷&東宝特撮→東映を含めたその他テレビモノ」という好む対象のヒエラルキーが存在しました。
それを池田さんはこのコラムでひっくり返しました。
さらにそれを重要な形で補佐していたのが中島紳介さんのコラムで、特にアニメック後半のロボットアニメ関係のお約束とかをネタにした話とか、ドンドン「楽しむ楽しまないのは見る側の見立ての問題でもあるよ」という問題定義を直接ではなく楽しく読ませて、読者に気付かせていくのでした。
ただし、これはリアルタイムで放送されているアニメ、特撮、及び過去作のソフトが圧倒的に少ない時代だからこそのDIY的発想かつ提案であったと思いますが、お陰で「自分だったらどうするか」という作家のもつ基礎能力のひとつをここで楽しみながら学んだわけです。
幸いにも私が10代だった80年代までは「名作映画100選」を片っ端から見れば映画史は俯瞰出来ましたが、今映画史を俯瞰するとなったらその三倍はみないといけない。

そういう意味で若くて時間があるときに「過去の傑作」や「埋もれてしまったもの」を掘り起こして、見るきっかけを作ってくれたり知識を貰えるのは幸福でした。

今は分厚い時の映画秘宝と、本家の映画秘宝のコラムが若い人たちにとってはその役割を担ってくれてるのは興味深い限り。むしろアニメ雑誌とかにこの手のコラムがないのは……まあ1年の作品数が多すぎるからでしょうか。
ただ、大量の作品が出続ける状態というのはいつか一度終わりを迎えます。
それから時が流れれば必ず今の時代の作品群は、埋もれたモノ輝いて評価されたモノを含め、改めて再評価されることになるでしょう。
その時が楽しみです。

アメリカの作家はやってるそうですが

アメリカの作家がやってて子供の頃「へー」と思ったのが「口述筆記」というやつです。海外の映画やテレビを見ているると70年代まではよく、会社の社長が社長室をうろうろと歩き回りながら

「よし、書き出しはこうだ、あー『親愛なるマディ』ちがった『やあマディ、お元気ですか』……これも違うな、『拝啓、インディグレイド夫人。今回はいつものように楽しいお話ではありません、あなたの夫の解雇について私は話さねばならないのです。あなたの夫には大変満足していますが、我が社は現在大不況の中、社員の削減を求められており』……君、ちゃんと打ってるかね?」
とか言いつつ、傍らで秘書がタイプライターをカシャカシャ打ってるあれです。
確かそれを小説でやっている作家がいると聞いたのは「トワイライトゾーン」の膨大な脚本をほぼ一人でこなしたロッド・サーリングだったと思います。
彼は朝テープで思いつくままに脚本をテープレコーダーに(当時のことですからオープンリールでしょう)録音し、秘書に預け、昨日秘書に渡して文字に起こしたモノを推敲し、数時間後に出来上がったものを自分で添削、翌日の推敲に廻し、ということを繰り返して、あの傑作群をものにしていったという話を本で読んで「それは格好いい」と思いました。
日本だと太宰治が電話で、あるいは寝床に伏せったまま口述筆記をさせたという話が残っていますが、さすがに文豪ともなると「あの文章がそのまま口から流れてきて書き留めたものはそのまま原稿になった」という話で。

幸い私が「作家になりたい」と思う頃には我が家にもテープレコーダーはありましたからこれ幸い、とやってみたんですが……私には秘書がおらず、結果として、「もっとも聞いていて違和感のある自分の声を聞きながら文章を起こす」という苦痛をせねばならないということで断念しました(しかも当時は手書き原稿でしたし)。
あと意外に話芸の訓練を受けていない素人というものは、当人は普段の会話で達者だと思っていても、創作の文章とナルトつらつらと流れるように作り話を流せないものなんですね。「あー」とか「えー」とかになってしまう。特に地の文にこれが多くなる。
これも聞いてて「下手くそ!」と自分で自分を罵り、上手く行かない原因でした。
あと自分で思うほど文章というモノが緊張して脳に浮かばないというのにも呆れて結局放り出しました。

ところが時代は巡ると「音声入力」はいまやスマホに搭載されて当然の機能となり、その精度も大分上がってきたようです。少なくともSiriなどはウィットに富んだ(時には富みすぎる)会話を出来ることは有名です。

で、最近行き詰まると万年筆でコクヨの原稿用紙に書いてみたりしてましたが、音声入力で書いてみるのはどうだろうと思って、行き詰まった時はやるようにしています。あと疲れ切った中、作品の要点整理のメモなどを作る時には重宝します。

もっとも音声入力と言っても当人の発音の仕方、及び特殊単語までは引き継いでないので、入力した後、手直しは必要ですが。

不思議なことに人間、喋る時のほうが書くときよりも頭が回転し、文章的にも多い分量を脳から出力できるようで、たった1時間で分量だけは4時間机に座ったのと同じ文字が口から出てきます。
そのままでは使えないのでやはり手直しが必要なのですが、それでも何度か改稿することを考えれば「第ゼロ稿」としては充分です。
文章書きにとって下書きにあたる「最初の原稿」が出来ることが大変ですから。
出来ればひと頃の志茂田景樹先生のように一日二日で一冊、と行きたい所ですが(志茂田先生は最も本を出してらした時期、当時出たばかりのMP3レコーダーだったかテープレコーダーで朝昼晩違う作品を吹き込み、それぞれ担当の秘書にテープから文章を起こして、それをチェックし書き直していたそうで)、まあそれはともかく。
上手い具合に万年筆と原稿、キーボード入力、そして音声入力を使い分け、停滞する時間をなるべく短縮することで生産性を上げていきたいなあと思っております。

「ザ・ドメスティックス」と韓国版「人狼」

知り合いに教えて貰った映画の予告編の話を今日はひとつ。

どうやら何かがばらまかれて空が永遠に黒い状況になった「いつかのアメリカ」
いくつかのイカレた格好のアナーキーな連中がいくつかのグループに分かれて世の中を席捲してる中、不幸にも正気を留めてしまった「普通の人たち」はドメスティックスと自称他称で呼ばれるようになり……というお話。
Sのつかない「ドメスティック」という言葉には家の中、国内の他に「飼い慣らされた」という意味もあるらしいので色々ダブル、トリプルなネーミングになっているようです。
マッドマックスでゲームのフォールアウトなポストアポカリプスな世界で、同時にザ・パージやハンガー・ゲーム、ザ・ミストに代表されるような「正気と狂気の端境に追いやられる一般市民の地獄巡り」な作品のようで、DVDでいいので日本に来てくれないかなあと思っております。

で、もう一本、期待している作品があって韓国版の「人狼」。押井守監督が大きく路線を変えるきっかけになった「紅い眼鏡」から連なる劇場アニメを、実写で韓国で、ということで期待してたんですが、どうやら期待以上のものになりそうです。

電子書籍についての雑感

作家稼業というものをやっておりますと、昨今は印税の他に電子書籍の「売り上げ」というモノが入ってきます。
印税は出版社が「あらかじめこれだけ刷って販売するのであなたに前払いします」ということで原稿が出来上がって契約を結び、1万冊刷ったら1万冊の印税が著者には入り、実際には100しか売れなくても「返せ」とは言われません。

電子書籍からの収入は文字通りの「売り上げ」で、何冊売れたかを定期的にチェックし、その売り上げから私の取り分をまとめて支払う、ということになります。
大きな違いは出版社にとってのリスクと我々作家にとってのリスクの種類です。
出版社は「印税」で紙の本を印刷すれば大きく儲かります(といってもどんな本でも最低の採算ラインは2万部前後だそうですが)、また勝手に安売りされることがないように法律で保証された商品でもあります。
その代わり、本としての体裁を整えるための最低限の内容に指導とチェック(編集者と呼ばれる人たちがこれを行います)、校閲校正、版下の作成と印刷、流通へ支払う費用、売れなかったときのリスク(在庫を保管する場所の維持や送りかえされる時の流通費用など)は全て出版社の持ち出しで、それ故に作家の取り分は全体の10%に過ぎないか、あるいはそれ以下に設定されることが多々あります。
ただし、そのお陰で作家は印税というモノで最低限の収入を保証されるわけです。
売れなくなった本の作者は次の作品の部数を下げられていき、ある一定ラインを切ることが連続すれば(もしくは致命的に売れない、と営業が判断した場合)「もうあなたの本は出せません」となります。
商業出版の電書は基本それよりもやや高く作家の受け取る割合が設定されてはいますが、文字通り売れただけ。シビアな現実がお金になって跳ね返ってきます。
ですが、本屋に本を置くのには流通との契約、書店との契約と個人では難しいハードルが幾つもありますが、電子書籍にはそのハードルが低く設定されています。
電子書籍はそれだけで作る場合様々なソフトやアプリケーションが現在アリ、AmazonのKindleに至っては自動生成するシステムを無料で公開利用できるぐらいです。
ですから、最悪作家にその気があれば電子書籍を自分で出すことは可能で、その売り場はあちこちにあります。AmazonのKindleに至っては「うちで専売するなら定価の70%は著者に」と盟約するほどです(※ただし定価の下限あり)

ここで問題なのは多くの商業出版社が「紙の本」中心でシステムを運用し、電子書籍を敵視している、あるいは「オマケ程度のもの」という認識であることと、商業出版の場合「電書用の版下と印刷用の版下は現在同じシステムでは作れない」ことです。

単なるPDFなら問題ないのですが、電子書籍の様式(システム)は現在国内にKindleを含め、大きなものだけでも紀伊國屋、BOOK WALKER、BookLive、e-book japan、DMMブックス、Google play、honto、ibook store、Reder Store、ワニブックスのビューワー、ニコニコ静画等々も含めれば10種類以上あります。
それぞれのシステムに合わせて版下を作らねばなりません。
スマホで見るのかタブレットで見るのかPCでみるのか、それぞれの画面に対応することを迫られたりもします。
結果、現在は浮くはずだった流通費用と在庫保管(これが紙の本だと値段の3割を越え、在庫保管の費用と合わせると半分近くを占めることになります)の費用が浮かない……ということらしいです。
紙の本は本屋ごとに版下を変えたり判型を変えたりする必要はないですものね。
ですから「Kindle専売だと著者の取り分70%」というのはとんでもない飛び道具ではありますが、同時にそれが「飛び道具」になる素養は、この日本国内の電子書籍方式の統一性の無さに起因します。
さて、電書の印税ですが、最近よく苦笑いするのは、数年間で販売された冊数をトータルで計算すると、軽く紙の本の再版2、3回分になってたりする本もあったりすることです。
恐らくこれは「店頭になければ買えない」紙の本では逃してしまう売り上げです。
電子書籍の良い点は「どこにいようとクリックしてしまえば買える」ことにあります。
が、同時に殆どの出版社にとって今の所値段が上下する(紙の本ではないので保護対象ではない&Amazonの方針もアリ)電子書籍は現在(2018年)殆どの出版社において「本の売り上げ」としてカウントされません。
私の電子書籍の中には数年がかりではありますが、紙の本の再版分に匹敵する売り上げを出したモノもありますが、だからといって「又続きを」とはなりません。
現在はあくまでも紙の本の売り上げ(それもほとんどの漫画やライトノベルの場合は一週間の初動)がその作品の命運を決めてしまいます。

そして個人で電子書籍を出す場合、どうやって買ってくれる読者までその情報を届けるのか、という有効な手段が未だに見つかっていないという問題が解決されていないのです。

すでに個人書店が減り続け、反対にスマホやタブレットは増え続けているご時世です。
出版社、流通、本屋の関係とシステムが出来上がって100年以上経過しているそうですから、そろそろここいらで新しく「紙の本を売るやり方」を考え直すべき時にきてる気がします。
そろそろ「紙の本は初版のみだったけど電書で再版数回分売れた」という「本」も出てくるかもしれないので、収益の見方やシリーズの継続に関しても新たな基準が必要になると思うのです。

Twitterでも他の依頼原稿でも書いたことをまたここでも繰り返しますが、「本=紙の本&電子書籍=紙の本の敵」という考えを捨て去り、「電子書籍という新商品」に対する考えを変え、国内の電子書籍の基準を統一しないとマズイ時期に来てると思います。

個人的には紙の本自体が中身の周知宣伝のアイテムとして組み込まれて収益は電書で、みたいなビジネスモデルとか…あれ?何偉そうな事を私はいってるんでしょう?これは涙?

……てな冗談はともかく。

とりあえず自分の場合は「紙の本も電子書籍もどっちも売れて欲しいので、電書の発売時期を紙の本より遅くする制度は止めて欲しいなあ」と思います、ハイ。
※下の画像をクリックすると電書を含めた神野オキナの本の案内ページに飛びます。気に入った表紙をクリックするとさらに解説&販売ページに飛びますので、お買い上げよろしくお願いいたします。

色々作る時の思考

昨日は一オタクとしては「何でも楽しもう」という考えが幸せだし寛容である必要もある、とお話しをしました。
が、まあ矛盾するのが人間です。
自分がものを作る時は話が別になります。
観客モードから思考を切り替えて、己の声に素直に従って「あれはやるまい」とか精一杯自分の信じるモノを全部投入してやれることを全部やるのがベストです。
もちろん完全には行かないけど、その時、その瞬間、その場においてやれるだけはやる。
後悔するのはあとで「やらない後悔よりやった後悔」でいく。
西川伸司先生の漫画「日本特撮映画師列伝 」の中で、とある造形作家が寝不足と時間の無さに不本意な出来の怪獣の着ぐるみを納品して、その際ちょっと言い訳をしたら現場の偉い人に「視聴者には関係が無い、君はその言い訳を怪獣の背中にでも書くつもりか」と怒られるという挿話があります。
基本、物作りはそういうもので、お客の目に触れた時点で作者一人のものじゃなく、事情も観客には無関係です。
こういう話をしてると、なんか自分のクビを真綿で占めてきてる気もしますが(笑)で、色々なゲームや漫画制作の現場を取り仕切った経験のある知り合いの某氏に、
「締め切り守りつつ自分のクオリティを高め、あるいは維持するにはどうしたらよいのよ」と訊ねたら
「そりゃ簡単だ、多くの完成品をつくって世に送り出せばいい」
とあっさり言われました。
「完成品が多いほど普通、物作りは上手くなる。半完成品は夢の塊のママだからある程度まではいっても結局、当人が望むように上手くなることは絶対にない」
「じゃどうやって完成品を多く作る? とにかく適当に早く?」
「いいものを作るのは商売として当然。適当に作るんじゃない、手早く作って見直す」
「どうやって?」
「頭から最後までとにかく急いで、出来れば締め切りの半分の時間で一度完成させる。で、なるべく時間をおいて客観視する。そうしたら何処が足りないか、歪かが判る。あとは最低限の手直しでどこまでいけるかを考えて、手直しをする。締め切りギリギリまで」
「えーと、最低限の手直しって手抜きじゃ? 駄目なモノは全部作り直したほうがいいんじゃないの?」
「あのね、客観視した上での最低限の手直しってのは、手抜きじゃなく効率化の時間を取った上での最短距離。全部作り直しは気分はすっきりしてもドツボに入ると永遠に完成しない」
「…………でもさ、こう創作行為ってのは【天啓】というか【マジック】が試行錯誤の果てに最後の一瞬振ってくるもんじゃないの?」
「あー、それな。ただの錯覚。たまたまそれで上手くいった奴がそう言ってるだけ。第一即身成仏した偉い坊さんの周囲には山のようにしくじった連中の墓があるって話をしただろ? 仏陀以前&以後に同じ様に悟りを開こうとして歴史に残ってない連中がどれだけいるよ?」
「う……」
「第一、お前さんがそういう作家ならとっくにそうなってるだろ。なってない、ということおはそういう作家じゃないってことさ。その上でどうしていくかってことじゃないかね?」
「……はい」
「で、お前さんの仕事のやり方はどうよ?」
「うう……作っては矛盾に気付いた時点で戻ったり先にいったりしながら……やれるだけのことを全部ぶち込んでネタも……」
「今から20年ぐらい前に沖縄コミケの時に開田裕治&あや先生ご夫妻や唐沢俊一先生たちと一緒に来られてた睦月影郎先生になんて言われた?」
「【プロ(の作家)は手を抜くんじゃなくて力を抜くんだよ】って」
「それをオレ流に翻訳するとこーなる」
「……」
「お前さんは元々職人型の思考回路と創作方向なんだから天才のマネをしないほうがいいだろ? そっちの努力は間違った努力だと思うぞ?」
というわけで私は仕事のやり方を切り替えたわけですが。
その辺の事情はこちらの配信動画に。四回もあるんでお暇なときにでも。

受け手と送り手、寛容と不寛容のお話

「伝説の作品」ってのがあります。あるいは「名作」とも。
映画で言えば私たちの世代で言えば「風と共に去りぬ」やチャップリンの映画を指してそう言いましたし、今は「2001年宇宙の旅」や「スターウォーズ」とかのSFも入りますね(2001年は昔からだぞ、というご意見もありますが……)

さて「名作」「伝説の作品」は基本、ヒットします(「素晴らしき哉、人生!」など公開当時はヒットしなくて後で名作認定受ける作品もあります)。

ヒットすると必ず「2」が作られ、それがまた上手い具合に当たるとシリーズになったりもします。
もとから長大な原作を切り分けて公開する「指輪物語」の映画化「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリーポッター」もありますし、「スターウォーズ」も「スタートレック」も根強い人気を誇り今も続編が生まれます。

日本のテレビアニメで言えば代表作はまず「機動戦士ガンダム」でしょう。

さて、そういう「伝説の作品」には、それが受け容れられる素地が社会にあって、作る人がいて、上手い具合に時流の流れや公開時期に競合作がないなどの条件が揃っての大ヒットとなります。

ちなみにSWにはそのわずか10年前に「スター・トレック」のテレビ版があり、制作直前には壮大なSF長編を原作に「デューン・砂の惑星」が巨匠・アンドレイ・ホドロフスキー監督でプロジェクトが進められていました。

「スター・トレック(宇宙大作戦)」はテレビという場所と60年代という「SFなんて子供の見るもの」という偏見が残っていた時代ゆえ、早々に打ち切りになり、ホドロフスキーの「デューン」はスタートレックと同じく当時は出資する側に理解者の数が足りず、また原作が長く、壮大すぎ、ホドロフスキーが望むモノが巨額の予算を必要としすぎるということでプロジェクトは停止。
結果、70年代もそろそろ終わりの頃、南部の田舎町出身の大学生が子供の頃夢中で見たSF活劇を当時の最新のセンスとテクノロジーで、そして最も単純なストーリーに乗せ、そこにそんなキャラクターを演じられる役者が揃い、同じこういうモノが大好きな若いスタッフが集まり、最後にアラン・ラッドJrやゲーリー・カーツという「こういう若者に未来を任せてみよう」という太っ腹なプロデューサーが揃った「スターウォーズ」は文字通りそれ以後の娯楽の世界を変えてしまいました。
こういうのを「天地人揃う」と言うそうです。
そういう作品はヒットした後人々の記憶の中で「魔法」をかけられます。
「楽しかった、凄かった」が記憶の中で熟成されやがて「永遠の1本」や「お気に入りのトップ3」とかに入っていく過程で。
さて、この「魔法」はとても厄介です。

特に続編を作ることになると。

フランスでリミュエール兄弟が初めて「汽車」や「工場」を上映したとき、人々はスクリーンの向こう側からやってくる列車を避けようと大騒ぎしました。
が、僅か十数年後、バスター・キートンがひょいとやってくる汽車の先頭に飛び乗ってやってきても人々はキートンの度胸と身体能力に感嘆の溜息をつきましたが、誰も汽車から逃げようとはしませんでした。

人は刺激に「慣れてしまう」ものです。

脳に直接働きかける麻薬でさえ、最初の使用体験以上の効果を得ることは出来ない、と言われています。

そんな「魔法」がかかっている。

厄介なのは「一度見てしまったものをふたたび完全再現しても、観客の喜びの度合いが下がる」ということです。
同じ様に撮影し、同じ役者を揃えても、それだけではダメ。
「驚き」が必要です。あるいはそれに勝る「心地よさ」。
つまり一作目と同じ「同じ魔法」の再現は不可能。

となれば、別の「魔法」をかけるしかない。
ホラー映画だった「エイリアン」の次が大バトルアクションの「2」になったように。

日本で言えば、ガンダムが好きなら種でもAGEでもファーストでもいいじゃないのかなーと思います。仮面ライダーや戦隊もそうです。

80年代までの間、オタクがSFファンの中に内包されてた時期「ガンダムはSFじゃない」とか「アニメファンはSFから出て行け」みたいな心ない言葉に憤慨してた身としては今、自分がそれを繰り返す立場にはなるまいよと思うわけでして。

「たかが映画じゃないか、オードリー」の精神で。

極論すると、全ての娯楽作品は当人に「合うか合わないか」でしかないんじゃないでしょうか。
駄作か傑作かは結局主観なので。
「私には合わなかった」
「私には面白かった」
ぐらいで考えたほうがいいんだろーなーと。
もちろん「これはどう考えても私には楽しめる方法が思いつかない」とか「私はこの作品に不愉快しか感じない」ものもありますけれども。
少なくとも楽しんでいる誰かの襟首を掴んで「君の好きな作品はクズだ、こっちを読みなさい(見なさい)」とかやるのは道理が違いますよね。

昔の作品だって全部傑作なわけではなく、傑作だから残るとも限らないし、そこら辺は自分の仕事じゃない間は楽しむスイッチでいこうとなるべく考えています。

ただのオタクの一人としては【娯楽に関して】は「今を楽しみ、なるべく否定しない」「自分とは違う価値観の人に質問はしても詰問はしない、思想矯正なんてもってのほか」が一番いいだろーなーと思う次第。

難しい話ではなく、もっとボンヤリと「どうにもわからないけど、自分に害があるわけでないし放置」でいいんじゃないかなーと。

正確には娯楽に関しては「自分に合うか合わないか」だけで考えるようにしてると「自分には良さは判らないけど現状、実害を及ぼすわけでないものは放っておく寛容さ」という大事なモノが維持出来て、最終的には自分の居場所も守れる一助にはなるのではないかなーと思うわけです。アラフィフのオタとして。

不寛容は間違いなく敵を作りますが、寛容がでは必ず味方を作るかどうかはともかく、少なくとも敵を増やさずにすむ効能があると思いますよーってことで。

沖縄慰霊の日

今日は沖縄、慰霊の日です 。
私が20代のころ、休日か否かは選択式でした

「休みたい人は休み、出勤したい人は出勤。その際は休日出勤扱いにします」

とのお達しで、半分ほどが休んでいました。これは当時まだ「遺族」が現役の職場にいたからでしょう。
私が小学生の頃、親戚の集まりがあれば、一人か二人、その時の傷の見える叔父さんやおばさん、お祖父さんお祖母さんがいたものです。

今は殆どの人が休まないと聞いています。

歴史的なことを言えば、この日からも沖縄戦は続き、そしてそこからの米軍支配、本土復帰と日米地位協定の歪さから来る基地問題など、今なお色々ある沖縄です。

が、左右の思想を問わず流れてくる「それらしく見え、自分にとって望ましいデマ」と「苦いけれども嘘偽りのない事実(※心のありようによって変化する<真実>ではなく、客観的な事実)」を見分けつつ、現実を見据え、内外に対しどうお互いに歩み寄っていくのかを考えつつ、あの戦争で失われた命、今も世界のどこかの戦場で失われ続けている命に黙祷を捧げたいと思います。

さて、沖縄における戦争は終わりましたが歴史は連綿と続いており、今も、紡がれ、未来に向かって流れていくので、数十年後の人々が我々を見るとき、胸を張っていられるようにしたいものです。
さて本土復帰前夜(1960年代中盤)沖縄がいかに「日本」という国に憧れていたかを示す広告を最後に。
この日本への素朴な憧れは県民の心の片隅に、今も息づいています。

父の最後を看取りつつ(4回目&最終回)

妹に電話をしましたが仕事があるうえに家が病院よりも遠く……と思っていたら、これまでどんなときも我が家に親切にしてくれていた母方の叔母(母の姉)とその娘さんが偶然近くまで来たからと御見舞いのつもりで顔を出してくれました。
「どういうことなの?」と騒然とした病室で叔母に言われ、こういう偶然があるのかと溜息がでたのを覚えています。
こういうのも巡り合わせなんでしょうか。
そして、私と叔母とその娘さんの三人に看取られナースステーション前の病室からICUに移動するためのベッドがやってくる直前に父は「息が苦しいなあ、頑張らんといかんかなあ」と言ったまま、荒い呼吸をちょっと続けてました。
「もういいよ、頑張らなくていよお父さん」
そんな芝居がかかった言葉が自分の口からこんな時に出るとは思いませんでしたが、そうしないといけないと思いました。
これ以上「頑張る」ことは苦痛を長引かせることとイコールですから。
それから大きく、激しく何回か息をした後、父はぱたっと、という感じで息を引き取りました。

母は手術を繰り返しながら5年の、祖母は膿瘍瘍から来る脳死状態で6年の寝たきり状態で、生涯の殆どをその看護と費用の支払いに費やした父は、同じ様な寝たきりになることをこの世で最も怖れていましたが、幸いにも、そういうことにはならず、あっという間に近い形で世を去りました。

しかも4月の、冗談みたいに晴れわたった昼下がりに。

てっきり母のように父も夜遅くに事切れるだろうと自分が思い込んでいたことにその時気付きました。

そういうわけで、私は妹夫婦と、それでも付き合ってくれていた親戚一同のありがたい手助けもあって父を見送りました。
葬儀当日のドタバタは割愛。
終わった後の施設からの退去についてのことは前にも書いたとおりです。
さて、葬儀が終わると妹は遠くに嫁いでいるのでもう別の家、つまり私は世に言う天涯孤独になったわけです。
父の遺産と呼べるものは一切ありませんでした。
結局父は母と祖母の医療費と私たちの学費という名の借金を払い続け、50歳でそれを完済したあとは「自分の引退費用のために働く」として家にお金を入れず、私も仕事が軌道に乗ったので同居して光熱費家賃を全額負担し、さらに幾ばくかのお小遣いを毎月渡してましたし、さらに心臓をやってからは年金も10年以上にわたって受け取っていたはずですが、最後に施設に入るときには貯金ゼロで、年金をカタにした借金さえありました。
30歳を過ぎてから衣食住の面倒を見て、さらに小遣いという名目で生活費まで渡してその度に「いつ俺の商売はどうなるか判らないから10分の1でいいから貯金しててよ」というたびに「ああ大丈夫、いざとなったら独立してやっていけるから安心しろ」という会話を十数年続けたハテの話です。
それまでの間に、子供の頃に思っていた「立派なお父さん」像のメッキは剥がれ、嘘や見栄のツケが親戚を含めた「他者からの苦言」という形で私の所まで回ってきてましたから、ある程度の覚悟はしてたんですが。
まさかスッカラカンどころかマイナスになってるとは。
さすがにその時は揉めました(笑)
父が金を何に使ったのか、誰にくれてやったのかは大体の予想はつきましたが、父は決して口を割りませんでした。
それこそ「墓場まで持っていった」のです。
恐らく、父は母を失うまでの間に色々なものを投げ捨ててしまったんだと思います。特に神信心や将来の計画性というものを(前者は一度でも沖縄で喪主になれば痛感すると思います)。
そう私が考えに至るまでの話はまたいずれ。
とにかく、葬儀が終わって初七日が過ぎたあたりで「エージェント・オブ・ドラグーン」のタイトルだった「リラム」にゴーサインが出、執筆作業に入る前にその次の刊行予定になる「エルフでビキニでマシンガン!」の詳細プロットを作りはじめました。
「芸能人で良かった、親が死んでも笑って舞台に立てるんだもの」
と昭和の昔、誰かが言ったそうですが、そんな気分でした。
ちょっと自己演出の審理が入っていたのかも知れませんが、とにかく、仕事があるのは、本当にありがたいと改めて思いました。
「カミカゼの邦」のプロットにゴーサインが出たのもこのころでした。

 

 

 

 

 

 

 

※表紙をクリックするとそれぞれのページに飛びます

それが終わると「EXMOD」の元になる「メトロノームMOD」企画書を組み立てはじめました。こちらが刊行されるのは「カミカゼの邦」よりは早いモノの、翌年の2017年になります。
※表紙をクリックすると解説のページに飛びます

さて年があけ、EXMODの直しをしながら第2稿を書いていたのが「カミカゼの邦」になります。
「もう天涯孤独だからなにやってもいいや! 全部ぶっ込む!」という覚悟が決まっていたからこそ書けた作品だと言えるでしょう。
こちらはさらに5稿までかかり、世に出ました。
※表紙をクリックすると解説のページに飛びます

「カミカゼの邦」の第2稿と並列で直していたのが「軍師/詐欺師は紙一重」の1巻の2稿となります。
※表紙をクリックすると解説のページに飛びます

結局、それでも作家としての経済にはこの数年間、なんだかんだで大打撃を受け、マネジメントの人の並外れた努力と助力にもかかわらず、私自身もヘタレたりして、未だに建て直しは進まず、という状況にあります――――正確にはマネジメントの人が立て直してくれたのでこの程度で済みました、といえるでしょう。
まあ生きてる限りは何とかしますし、何とかなるでしょう(そう思わないとやってられません、「こち亀」の両さんがいうように「まず生きる」にスイッチを切り替えて物事を考えないといかんですから)。

……というわけで、そんなこんなで2年が過ぎ、父がいないことはようやく「日常」のなかに組み込まれました。

ですがもう二度と使わない電話があって、あやふやな過去の思い出について問いただす相手がいないというのは、相手にどんな苦労をさせられていたとしても、やはり寂しいなあと思います。

何よりも「お話」への興味を生み出してくれたのは36歳で世を去った母でしたが、そのお話の興味がお話作りに変化する上でのコアになる映画や音楽を教えてくれたのは父でした。
小学生のころ、毎月1回父に連れていって貰う映画と、帰り道に必ず平和通りで食べてたざる蕎麦の美味しさは特別でしたし、一緒に歩くことが好きでした。
その頃の父はまだ「立派な父親」であろうと努力していたのでしょう。
そういうことを「立派であろうとする」ことを全部放り棄てた後もコロコロ太って三桁体重の私と違って、病気で肺に水が溜まったとき以外、最後まですらっと痩せてお洒落でした。
何よりも、「作家になりたい」と言ったとき「30までにどうにかならなければ諦めろ」という条件付きではありましたが、止めたりしない人でした(もっともこれは無関心の裏返しだったのかも知れません。父は生涯、私が何を書いているかを読むことはなく、他者に私の職業を口にすることも滅多にありませんでしたから)。

そして今年、三回忌が過ぎて、ようやく色々な意味で父を赦すことができるようになりました。

できれば父の年齢を追い越してから、そしてちゃんと葬儀費用を作って、葬儀をしてくれる人の為に多少のお金を残してあの世にいくためにもお仕事です。

4回にもわたってダウナーな話にお付き合い、ありがとうございました。

父の最後を看取りつつ(その3)

さて、父の話ですが少し時間を巻き戻します。
まだがんが見つかる前、父に衰えが見え始めたのは、弟の様に可愛がっていた(という割にはかなりの迷惑もかけていたのですが、それでも気にせず我が家と付き合ってくれた気のいい)叔父と一緒に自衛隊の演奏会に行ったときでした。
心臓の事もあってそろそろ杖を使うようにしたほうがいい、という医者の言葉にもかかわらず「めんどうだから」と言っていた父はその日、席へ移動する最中に階段から脚を踏み外して転びました。
幸い、鼻の下を軽く打って鼻血が出た程度で、翌日病院に行ってCT検査までして貰って「異常なし」でしたが、それいらい歩き方がちょっと変わりました。
それでも「面倒くさい」と杖を使おうとしなかったので、「杖がなければ外出しない」と私も、父とはかなり離れたところにすんでいる妹とその子供たち(つまり父にとっては孫)も厳命したため、渋々使うようにはなりましたが、それでも父は杖を嫌がってました。
ものぐさな人でふらっとどこかにいってふらっと戻ってくるのが好きだったためもあるのでしょう。
さて、父の治療が始まりました。
父は抗がん剤を投与された当初こそぐったりしたりもしてましたが、次第に慣れてきて、また入院先が真新しくてスターバックスみたいなカフェもあるため「チーズバーガーとホットドッグが好きだがどっちかといえばホットドッグ」という父はそこのホットドッグを喜びました(ただすぐに昨今のおしゃれなもっちりバンズになったため、総入れ歯の父は地元のファーストフードA&Wのホットドッグを買ってきてくれというようになりましたが)。
社交性も高い人だったので(とはいえ昭和の男性ですので子供としては馴れ馴れしいのとどう違うのかという所もありましたが)、看護師さんとの関係も、同室の人たちとの関係もさほど悪くはありませんでした(昔は積極的に仲良くなろうとしてウザがられたりもしてましたが、さすがにもう最後の時だと覚悟した以上、そういうところにまで気を遣いたくなかったのでしょう)。
最後に外出したとき、那覇新都心で映画を観ました。
ちょうど007の「スペクター」が公開されていましたが、10分遅れて映画館に入ったため、10分後に上映の始まる「コードネームUNCLE」を見ることにしました。
「何の映画だ?」と首を捻る父に「ナポレオンソロだよ」と言ったら「ああ」と納得し、60年代舞台の映画を観て楽しそうにしてました。
それが、父と最後に見た映画で、最後に食べたのはイタリアンレストランのスパゲッティでした。映画館のあるショッピングモールからレストランまでの1キロ足らずの距離を、二度も休憩をいれて移動する時点で「もういかんのかもしれない」とうっすら感じたのを覚えています。
とはいえ、そのあと数か月病院と施設を行き来し、年も明け、父は「長く歩かなければ大丈夫」と杖を使いたがらないのは変わらず元気で、少し痩せた、程度でした。
それが明らかに変わったのは2月からでしたでしょうか。
明らかにフラフラしはじめました。当初は抗がん剤の影響か、と思いました。
なにしろ食欲は相変わらずでしたし、ピザーラのピザを買っていったら「やっぱピザはフチまでパリパリしたシェイキーズのがいい」と言われて苦笑してたぐらいです。
2月半ばのある日、お医者さんから「一年と言いましたが半年か、もっと短いかも知れません」と言われました。
「とにかく早いうちに会いたい人に合わせておいたほうがいいですよ」と。
とはいえ、父の親友と言って私が思いつくのは二人だけです。
そして片方は父がICUに半年入っている間に重いがんで死去し、もう一人は色々あって距離を置いている人でした(あとで聞いた所によると実際にはその方はもうその頃すでに身体が弱っていて、会える状態ではなかったようですが)。
「とりあえず、来週、学会から戻ってきたら再検査しましょう」
そうお医者さんが仰ったのは3月の末。
「疾走れ、撃て!」の最終刊、12巻が発売される直前のことです。
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父は動きもよたよたしてはいましたが、それでも自力でトイレに行き、ラジオを聞いてましたが、4月のある夜電話で「ラジオが壊れた」と言い出しました。
その頃私が手がけていたのは「エルフでビキニでマシンガン!」の企画書で、「大交渉者(仮)」というタイトルの異世界ファンタジーモノのプロットが仕上がって編集部に送ったころだと思います。
この「大交渉者」がのちに大改変と紆余曲折を経て「軍師/詐欺師は紙一重」という作品になります。

仕方ないので新しいラジオを買って翌朝病院に行くと、もう容態が急変していました。
「今週いっぱい」と当直の先生はいい、ならいつものように録りためたお昼のラジオ番組のカセットテープが聴きたいだろうと思って(今思い返せば、母が死んで以後酒と煙草と競馬以外何の趣味も持たなかった父が唯一せっせと毎日やってることでした)、施設の人たちに許可を貰い、父の部屋に入らせて貰い、手当たり次第にベッドの下に収納してあったカセットテープの山を90リットル入る大きくて厚手のビニール袋に詰め込んで病院に戻ると「今日一日持つかどうか」と看護師さんから告げられました。

父の最期を看取りつつ(その2)

父の看護と、金銭的工面、そして仕事というトライアングルの中をグルグル回りながら、仕事のクオリティを落とさないために私は第三者に自分自身を管理して貰うことにしました。
ご本人の都合もあるので仮に「マネジメントの人」と呼ぶことにします。
これまでの仕事の流れというのは2つの行程に別れていました。企画書立案と執筆作業です。
企画立案・プロット(あらすじ)の構築→編集部チェック→実作業として書く
までは、普通の作家さんでもやってる事です。
が、私の場合ここからの実作業行程が問題です。
執筆作業・途中でおかしな部分が見つかる→あらすじに戻って手直し→実作再開→矛盾点を見つけたり追加部分を思いつく→その場で組み込み、様子を見て続行→全体を見回してストーリーの辻褄におかしな部分が無いかチェック→大丈夫だと判断したら編集部に送る→校正校閲(基本二回行うが、沖縄からだとゲラを送っても中1日を考えねばならないため、スケジュールによっては1回のみ)→完成。
という作業工程を大体1ヶ月半から2か月でやってました。
キャラクターや世界観をほぼ全て把握しているシリーズものだから出来ることではありますが、どうしても優先されるのはストーリーの矛盾潰しで、誤字脱字まで気が回りません。
またライトノベルは漢字や言葉の使い方が独特で、校閲さんも機能しづらいところがあります(また当時、どのシリーズも10巻を越えているため、出版の数字の問題もあって、急いで刊行せねばならない、という編集部の方針でスケジュールが組まれていました)

それでもなんとか執筆行程は2ヶ月で終わらせていました。30までは無茶がきく、というやつですが、40を半ばになるともうそういうわけにはいかず、作業が終わると暫く倒れて結局3ヶ月かかるようになっていました。

問題なのは、この執筆作業のやり方はシリーズものの継続には向いていますがゼロから立ち上げる新シリーズには向きません。
世界観とキャラクターの把握にかかる時間が入ってくるからです。
さて、新シリーズの場合は前段階が変更になり、
新作作成・アイディア作り→メインキャラクター作り&世界観構築&ストーリー作り→プロット(あらすじ)の構築→編集者に送付→編集会議→ゴーサインが出る→執筆作業へ
という形になります。
そしてライトノベルは2010年を越えて「なろう」という新勢力の合流があってその数を増やしていきました。
押し流されないようにするにはなるべく打席に立ち続ける必要がありますが、アイディア作りはともかく、提出から編集部の決議までいくのに1か月から2か月かかるようになりました。
それも全てのプロットに順調にゴーサインが出るわけではなく「うちでは今回この作品はちょっと……」ということも珍しくありません。
そこでこれまでのような行程をやるとキャラクターの把握に倍以上の時間が必要になります、つまり新作作りに3か月かかる。
年間2冊で大ヒット、ならいいですが、残念ながらそんな皮算用は出来ません。
私のような作家はこれからも年間6冊以上、できれば10冊は出してこそ次のヒット作が出ると思ってます。
そして私も気がつけば40を終わろうとしています。

もうこれまでのやり方ではダメだと思いました。実感です。

親しくしていただいている榊一郎先生は講師のお仕事やお弟子さんを育てることで常に若い人の感性を吸収していますし、その量産能力はもはや一個のシステムといってもいいでしょう。
さて、神野オキナは相変わらず「工房」ではなく「作業場」でした。
それもこの12年、こさえていたのは猫耳尻尾の宇宙人が出てくる物語と銀髪ロリッ子&ドジっ子士官のがメインの小説です。
どちらも生産終了と決まった今、「新製品」を作らなければなりません。
もちろん、生産終了する品も質を落とすことは出来ません……といってるウチに「あそびにいくヨ!」は終了、「疾走れ、撃て」だけになりました。
さてどうするか。
幸い、一般向けのお仕事もチョコチョコきてはいます。
ですがライトノベルは好きですし、これからも書いていきたい。
何よりも、私のような作家は手数が勝負です。
でも父の病状はゆるやかですが「終わり」にむけて移行していきます。
自分の心の管理は自分で何とかするとして小説を書くという「仕事」を「作業化」できる部分は「作業化」し、管理せねばなりません。
その辺のスケジュール管理や、創作手法そのものの変更が必要でした。
父が亡くなってからで、というには遅すぎます。
そこで、とある人にお願いして相談役と遠隔スケジュールマネージャーをしてもらうことになりました。
その人が提案したのはこういうやり方でした。
1・アイディア作り→メインキャラクター作り&世界観構築&ストーリー作り→2・プロット(あらすじ)の構築を複数作る→3・マネジメントの人に見て貰う→修正、取捨選択→4・編集者に送付→編集会議→ゴーサインが出る→5・箱書きを作成→マネジメントの人&編集者でチェック(※その間に私は最初のうちは4の段階でまた1~3までの行程を並列で行い、出来れば他の出版社に送るところまでを繰り返す)→6・箱書きに沿って初稿を作成→7・マネジメントの人に読んで貰ってチェック→8・チェック部分の修正と変更→9・第1稿として編集部に送付→10・編集部の意見を入れる→11・第二稿作成→以後決定稿になるまで繰り返し
という形になります。
行程は11に増えましたが、作業を並行するには細かく区切ったほうが「この作品は何処まで戻れるか」が判りやすい。
そして「後で崩壊することを予想して、あえてタイトなスケジュールを最初に組んで、次第にリアルなスケジュールに変更する」というテクニックも教えて貰いました(恥ずかしながらそういうコツすらしらないままにひたすらスケジュールに間に合わせる作家人生だったんです)。
これによって並行作業で複数の作品を作ることが出来、それまでかなり手間を取らされていた「自分で自分の作品を書きながら悩みつつチェックする」という行程を飛ばして、冷静な第三者に見て貰うことによってストーリーだけではなく誤字脱字のチェックをして貰い、マネジメントの人はさらに「ほら仕事して!」と今日やること、明日やる事、今週中にやること、今月中にやることを指示し、相談に乗ってくれ、時にグチを聞いてくれるようになったのと、同時にプロットを編集部に提出する前に第三者に見て貰う、そして編集部の「意向」の「通訳」もしてくれるようになり、仕事はお陰でなんとか回るようになり、クオリティにまで気を遣うことが出来る様になりました。
そしてiPadを使用したPDFによるデータ校閲を導入を提唱してくれたのも大きいです。これなら郵送時間を考えた日時の縛りが大分浮きます!
「疾走れ、撃て!」の最終刊の構成を最初に思いついてくれたのもマネジメントの人ですし、「リラム」なんてもっと凡庸なファンタジースパイ物になったと思います。

このリラムをはじめ、2016年の後半から出始めた新作が以前の作品よりもクオリティがあがり、誤字脱字が少なくなってきたのはこのマネジメントの人のおかげです。
さて、話を父の入院に戻します。(続く)